「明治十年代、板木購入・運用の実態とその背景」磯部敦(2023年12月2日、秋季研究発表会)

明治十年代、板木購入・運用の実態とその背景
――桂雲堂豊住書店史料から見えてくるもの

 磯部敦(奈良女子大学)

 
1.問題の所在
 書肆の板木購入について、明治前期、とりわけ明治十年代の事例がきわめて少ない。この時期の法的背景となる明治8年改正出版条例は近世出版機構における板株のあり方を大きく変えた条例であったわけだが、これを板木という視座から見てみれば、板木所有の権利性が剥奪された時期において板木はいかに機能していのか、という出版史的問題が指摘できるのである。本発表では、先ごろまで奈良で営業していた桂雲堂豊住書店の文書群より、桂雲堂大阪支店の蔵版書目録と板木市文書の検討をとおして、上記の問題について報告した。

2.桂雲堂豊住書店略史と豊住書店史料
 幕末頃、豊住家三代目の伊兵衛の頃から伊賀上野で出版活動を開始。明治以降も伊賀で活動を続けながら、明治12年頃、大阪に支店を開業した。明治20年7月付『改革主意書』(豊住書店史料)によれば、「弊家去ル十八年裁判事件已降大ニ声価ヲ落シ」、かつ「且近年板木買入金及新板彫刻物等総金額三千八百余円ニ及且支店譲渡現品及敷金并ニ貸売金合計凡弐千余円同支店ノ負債引受金額凡弐百円」が本店(伊賀上野、豊住伊兵衛)を圧迫し、家業が傾く。明治19年1月4日付『支店身代譲受候確証』(差出:大阪支店豊住弥太郎、宛先:伊賀本舗豊住御両親)に「本年本月ゟ当大阪支店身代現今有姿之侭悉皆譲り受申候事」、これにともなって「当支店現今有し候書籍新本古本他板及手板物等は無差別有之侭悉皆譲り受候事」とある。
 明治20年代前半も伊兵衛は伊賀で古書新本売買を商っているが、明治21年11月30日付『興和之友』一号に「{奈良椿井町}{書林}豊住支店敬白」の広告が確認できる(支店主は幾之助か)。明治20年代中ごろに奈良餅飯殿に移転。その後、数度の移転を経て東向北町に店舗開店。令和3年10月末、閉店した。
 本発表では豊住家に伝わる出版文書(豊住書店史料)のうち、明治9年から明治23年までの蔵版記録『桂雲堂蔵版書目録』甲乙丙丁の4冊、明治13年~明治23年の板木市文書群を使用した。
 『蔵版書目録』は、題簽記事「明治十八年二月改正/桂雲堂蔵版書目録 {豊住所有記}{四冊之内} 丙」から見て身代譲り渡しの際にまとめた蔵版記録であるが、明治23年まで板木の出入りが書き継がれている。
 板木市文書は、板木市会場で使用されていたものと思われるが、糊貼付痕等は見られず、見本として持参した書物の上に置いたりしていたもののようである。購入支払い後に自店の蔵版書目録等に転記すれば不要になる文書のため、残存はきわめて稀な史料である。

3.数値分析
 まず、『蔵版書目録』を数値から分析すれば、明治16年を頂点とした山型になっており、購入点数も金額も「十八年裁判事件已降」は激減している。『蔵版書目録』762点のうち、丸板は413点、相合(あいあい)は284点(形態不明65点を除く)。京都の藤井文政堂における板木所持率を分析した永井前掲書によれば全体の約6割が相合所持になるというが、豊住の場合は丸板所持が多く、そのほとんどが教科書であった。一方で、漢籍や名所図会など大部にかかる書物については相合所持が多く、これについては永井一彰『藤井文政堂板木売買文書』(青裳堂書店、2009)が紹介するところの文政堂らとおなじ傾向を示していた。

4.運用の実際
 板木は運用することで金銭が入る。その状況を見るに、丸板所持413点のうち摺刷使用されたのは156点で4割弱。このなかで最も多く摺刷使用されていたのは教科書類であった。所持板木には軒前(のきまえ)として割合が定められており、自ら摺刷しなくとも相合書肆が使用すればその使用料が入ってくる。こうした板木の回転が豊住の経営基盤になっていたわけだが、一方で、相合所持284点に至っては1割ちょっとの34点しか摺刷使用されていない。投下資本に対して死蔵が多く、これが経営を圧迫していったものと思われる。
 所持板木を利用して摺刷された刊本に特徴的なのは、刊行年が明記されていない奥付が多いことである。奥付表示が出版条例の則っていないのは、その刊本が「版」ではなく「刷」の次元で行われているからである。所持板木を利用するということは後印本の出来を意味するが、板木の機能は、使用料に加えてこうしたフットワークの軽さにもあった。

5.今後の課題
 板木を所持することの具体的なうま味は上記のとおりであるが、では、大量の金銭を投下できるだけの教科書の流通実態はいかほどのものであったのだろうか。また、板木市は大正時代まで続いていくが、購入・売却にどのような特徴が見てとれるだろうか。前者は豊住書店史の一環として、後者は近代出版史という視点で考えていきたい。