中西嘉助の出版活動と明治維新
――江戸期書肆から明治期出版社への移行
中西秀彦
(中西印刷株式会社)
明治20年の壁
日本には江戸期に多数の書肆が存在したことが知られている。しかし、そのほとんどが明治20年以前に姿を消している。その中で江戸期書肆から明治期活版印刷の出版社として存続し、明治20年以後、活版印刷業として盛業した嘉助を当主とする中西松香堂は特異な例といえる。
蓍屋からの中西松香堂分家独立と初期出版傾向
中西松香堂は慶応元年に蓍屋宗八向松堂から分家独立している。初代蓍屋嘉助(のち中西嘉助)は初期には独自の書籍出版を行っておらず、分家後しばらくは主家の本の販売を中心にしていたと考えられる。現存する蓍屋の印刷物は木版であり、中西松香堂も木版印刷に起源を持つことは推測されていたが、木版時代の印刷物は発見されていなかった。ところが、近年国立国会図書館デジタルコレクションはじめ、各地で古書籍のデジタル化がすすみ、容易に当時の出版物が検索できるようになった。2023年3月時点では明治元年(慶応4年、1868)から明治10年(1877)までに13点の出版物が確認できている。
明治元年(慶応4年)から明治10年の出版物13点のうち、地図が1点、学校関係が5点、加えて尊皇・皇学と考えられるものが4点あり、尊皇・皇学は明治3年以前集中しており維新期の際立った特徴となっている。それ以外が3点となる。
明治7年以後、学校関係書が主体になり、洋学を取り入れた世界史や世界地理、また多色刷りの児童書など非常に興味深い出版がなされている。なお、この維新期と明治7年代の学校関係の出版に移行していく時期にあたる明治3年から明治6年の時期の出版物が今のところ発見できていない。
福澤諭吉との偽版問題
明治初期の中西嘉助の活動を知る手がかりとして、出版物だけでなく、福澤諭吉の『西洋事情』の無断重板を行った記録が残る。福澤諭吉が欧米の著作権(コピライト)の概念を紹介し、初期著作権の確立に重要な役割をしたのは法制史的にも知られている。
明治2年5月に出版条例が公布された。これは版権保護が認められた最初の法でもある。福澤は同令にもとづき、同年10月に率先して「偽版取り締まりの訴」を起こす。これを受けた東京府からの偽版者処分の要請について、京都府から明治3年閏10月伊藤久兵衛、中西嘉助他京都の書肆に対して処分がなされている。裁きは「不埒に付きお咎申すべきところ、ご即位(明治天皇)大礼による大赦の前であるので罰せられるに及ばず」という寛大なものである。ただし、版木は取り上げられている。これについては質問があり、多田建次 『京都集書院』に福澤と明治維新期の京都書肆の動向について詳しい研究があると指摘があった。
嘉助の住居変遷と出版活動
従来、嘉助の創業の地は明治元年の「書林仲間名前帳」に「富小路三条上ル福長町」と記載されるのをもってこの地と考えられてきた。最近新たに「寺町通蛸薬師角」という所在地が記載された文献が発見されている。
寺籍簿等の資料をあわせて転居のあとをたどると、以下のようになる。
①慶応元年 寺町通蛸薬師角 ?
②明治元年 富小路三条上ル福長町
③明治3年 中京区寺町六角下ル式部町
④明治5年 東山区古門前縄手東三吉町
⑤明治10年 蛸薬師通麩屋町東入蛸屋町
⑥明治14年 堀川通押小路下ル押堀町
⑦明治18年 下立売小川西大路町
このうち、①②③⑤は現在でも京都の古本街として著名な寺町界隈である。⑥は当時京都府庁が置かれていた二条城の近隣であり、この時期から急速に京都府庁関連の印刷物が増える。最終的に明治18年(1885)府庁の移転とともに、⑦の最終地「下立売小川西大路町」に移り、現在も中西印刷はこの地にある。
特筆すべきは④の「東山区古門前縄手東三吉町」である。ここだけが鴨東(鴨川より東)祇園になる。この前後に出版活動が発見されていないことも合わせて、嘉助の不遇期にあたると考えられる。これが福澤諭吉重板事件の影響であった可能性はあるが推測の域はでない。
メディアの変化と出版
江戸期書肆が明治以後存続し得かったのは、木版から活版へのメディアの変化についていけなかったことが大きい。嘉助がこの中で生き残り、木版出版から活版印刷へと変化し得たのは、福澤諭吉重板含め、尊皇への傾倒など明治維新という時代潮流を読んで、大胆に新しい領域の出版に挑戦し続けていることにある。その間には諸々の軋轢があったが、それをはねのけて、変転を繰り返していった。メディアが変化すると、内容も変化し、産業構造そのものも変化する。それを嘉助はむしろ味方に付けて、たくみに出版領域を変え、出版技法も替えることで明治20年以後も生き残った。