雑誌の起源について   江代 修 (会報120号 2007年10月)

■ 雑誌の起源について (会報120号 2007年10月)

 江代 修

 ヨハン・リスト(1607-67)というドイツの聖職者で初期バロックの詩人が今年生誕400年を迎えた。『ブリタニカ百科事典』(15版,1994)の“Magazine”と同マクロペディアの“Publishing”の項目は,このリストが著した“Erbauliche Monaths-Unterredungen”(『月間教化談話』1663-68)を世界初の雑誌として挙げている。平凡社『世界大百科事典』(1998)の「雑誌」の項もこれに依拠したらしく,同じことを説く。
 しかしドイツの事典や文学史や出版史では通常,この散文問答体の刊行物を雑誌と定義することも,リストを雑誌の始まりと絡めて解説することもない。書物・出版関係ではドイツ最大の事典『総合書物学事典』の「リスト」の項目(巻6,2003)にもそれはない。ただし『キントラー文学事典』(巻14,1991)は,リストの同作が初のドイツ語雑誌(1688-90)の創始者クリスティアン・トマージウス(1655-1728)に影響を与えたがために,これをドイツの雑誌の「前身とみなす傾向」が従来の研究にあるとコメントしている。
 同作を雑誌と見ることに対しては,ドイツの代表的な雑誌研究者ヨアヒム・キルヒナー(1890-1978)も反論し,「各分冊のタイトルからしても,これが雑誌という企画ではなくて,著者の思いつきで月々の名と関係づけられ,12分冊となった出版物であることが分かる。『月間談話』では定期性が認められない。というのは第1分冊の刊行が1663年,4月談話が1665年,6月談話が1667年などとなっているからだ」(『ドイツ雑誌論.歴史と諸問題』1958)と述べている。
 しかし「12分冊」はキルヒナーの早とちりで,これは1月談話から(「1667年」ではなく没後「1668年」刊の)6月談話までの6巻で終わった。それはともかく,なぜ裏付けに乏しいリスト始祖説をブリタニカが持ち出したのか不思議な気がする。おそらくその著者は「1月談話」,「2月談話」という外面だけに拠って定期性を想定した(あるいはその種の説を借りた)のではなかろうか。要するにここまでの結論は,雑誌の歴史が1665年創刊のフランス語学術誌から始まるとする現行説に落ち着くことになる。
 では「ドイツの」雑誌の起源は? それを1682年創刊のラテン語月刊誌“Acta Eruditorum”(『学術報知』)に見る従来説に対して,キルヒナーは1670年から現れた年報“Miscellanea curiosa medico-physica”(『医学・自然科学学術雑報』)こそ「疑いなく」ドイツ初の雑誌だという。ドイツ語Wikipediaの“Zeitschrift”(雑誌)もこの説に与している。今後の議論の行方が興味深い。

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