鎌田大資
(椙山女学園大学)
すべての研究が、中断された終わりなき解釈の一断片として発表された思考の化石だとしても、本研究は標題の時期に見られる出版規制の背景要因として、考えられる錯綜した諸要素を整理し関連づける試行錯誤の、まさしく途中経過にすぎない。学会発表後、一月を経て、いまだにその思考を再開し纏めあげる時間がとれずにいるのですが、現時点では暫定的に以下の諸側面を念頭に考察を進めていることをご報告します。
0.『偐紫田舎源氏』の概略
平安時代末期に成立した『源氏物語』は、鎌倉室町江戸時代を通じて、武家の女子教育の好素材として多くの手習い手本、家具装飾にもちいられ、江戸の町人層においても武家の行儀見習いのために奉公に出る子女たちのあいだで広く親しまれたと考えられる。種彦の作品は異様に緻密に構成されており、彼は若いころからの国学関係の素養を総動員して『源氏』原典を読解し、全ページにおいて過去の『源氏』画像を再構成した挿絵と本文を組み合わせ、室町期以降の風俗や歌舞伎や浄瑠璃芝居の趣向もディテールとして取りいれ、時代の好尚に合致するように内容を刷新している。主人公、光氏(みつうじ)は応仁の乱勃発の前後に、戦乱の拡大を防ごうと腐心する謀略家であり、自身と血縁の美男美女を縦横に敵の家中に忍びこませて情報収集し事態を有利に導こうと、閨閥形成による軍略を展開する。本書のこうした人物造形は、もともとの『源氏』の枠組みにはないものだが、大まかに源氏五十四帖の流れをたどりつつも新奇な趣向を凝らし、類書が存在しない前人未到の翻案、改作となっている。また光氏の髷をむすぶ元結を伊勢海老の触角や脚に見立てた海老茶筅髷という独特の、ファッショナブルな意匠の開発も含めた流行絵師、国貞の工夫もあり、購買力のある御殿女中や上流町人子女を固定読者として版元の家計を潤した。
視点1.江戸期から幕末、明治に向けての広い歴史的文脈においては、町人層の自主的学習の教材として営々として蓄積されてきた娯楽読み物にかかわるものとして、本事件は眺められうる。寺子屋のような教育機関の存在と合わせ、文字を介したコミュニケーションの普及、そして幕末期の大火の被害状況、倒幕戦時の軍事作戦を報じる瓦版によるジャーナリズムの萌芽を準備する自学自習の教材の一つとして、『偐紫』のような作品のヒットを捉えることができる。
視点2.(特に女子)教育に有効な教材として作成されたテキストに関する処罰という側面。それゆえにこそ、天保の改革の際に、本作を処罰しようという動機が与えられた。元来、天保改革の出版取締りの主要なターゲットは、為永春水の『春色梅児誉美』連作にはじまる好色本だったというが、北町奉行遠山景元が指揮して作成した問題のある諸作のうちには、種彦が執筆した『源氏』パロディの春本も含まれ、最終的に『偐紫』本は時の将軍家斉の後室五十人といわれた多数の愛人や子女たちとの生活を連想させるものとして、絶版処分が命じられた。種彦は執筆をやめて小普請組であった旗本としての職務に専念するようにとの注意を受けて、『偐紫』絶版決定の以前に体調を崩して亡くなってしまう。
視点3.さらに江戸の出版規制史に特化した視角においては、多様な規制に対抗するため山東京伝や歌麿が考案、活用した「判じ絵」の技法が権力側に逆用されたものとも考えられる。国芳は歌舞伎の意匠による人物画として作成したという巧みな言い抜けを用意して、改革批判の錦絵を出版して十分な販売利益を確保したあと、自主的に廃版にすることで処罰を免れた。種彦の場合は、女子教育の教材として利益を出した出版物が、夭折、病弱など血統を残すうえでの問題を抱えがちな徳川将軍としては、例外的に多くの子孫を残し長寿を保った家斉にかかわるスキャンダルの、潜在的な素材として活用されることを避けるために絶版処分が与えられたと考えられる。これは、もともと規制への抵抗のため開発された技法が、規制の材料として逆用されたケースであろう。
視点4.最後に、本事件は老中水野忠邦のもとで改革の取り締りを担当した二人の奉行、遠山景元と鳥居耀蔵の交錯する経歴の交点としても捉えられる。遠山の父、景普は、寛政期に導入された朱子学に関する幕臣の論文コンテストにおいて首席となり抜擢され、長崎や松前において南北両方向に開かれた江戸期の対外関係を、開国拒否の方向で処理しつづけた能吏である。また鳥居は官学とされた朱子学を担当する林家の養子として勢力回復に努めた述斎の実子であり、景元と耀蔵は述斎を通じた姻戚関係にある。すなわち、彼らは朱子学を媒介として、寛政期以降に形成されたパワーエリートの門閥に属している。種彦に関する取締りは景元によるものと思われるが、その背後に各種の陰謀で蘭学派を弾圧していた耀蔵の意見や動向がなければ、その処罰はなかったかもしれない。水野の失脚後、謀略が露見して幕府瓦解にいたる20年以上を幽閉されてすごした耀蔵と、名奉行として栄光に包まれ、前代未聞の南北両奉行の歴任という伝説を形成した景元の経歴の交点に、この事件は位置づけられる。
今後、上記の諸要素の複合体として柳亭種彦『偐紫田舎源氏』処分の一件を再考するつもりです。