関西部会 発表要旨 (2007年1月24日)
明治期の子ども雑誌にみる〈中国〉表象
――博文館『日本之少年』と『少年世界』を事例として
泉陽一郎
本発表の目的は,第一に明治中期の子ども向け雑誌において〈中国・中国人〉(以下「〈中国〉」と表記)がどのように表象されていたのか,第二に〈中国〉表象がどのように変化していたのかを明らかにすることである。分析の対象としたのは,博文館から発行されていた『日本之少年』全6巻141冊(1889-1894)と,その継続誌である『少年世界』の第1巻1号から第9巻16号(1895-1903)までの全219冊である。分析の方法としてはテクスト分析を用いた。
始めに,記事内容を数量的に分析するため,対象雑誌2誌から〈中国〉に関連・言及する記事そして文章を全て抜き出した。それらの文章からキイフレーズを抽出し,「軍に関すること」「歴史・偉人に関すること」「考え方・人格(性質)・習慣・外見に関すること」「国柄・社会に関すること」「技術・技能に関すること」という5つのカテゴリーを設定,記事内容を分類した。次に日清戦争を基軸として「戦前期(1889-1893)」「戦中期(1894-1895)」「戦後期(1896-1903)」という時間的枠組みを設定し,この3つの時期における記事内容の変化を調査した。最後にこうして明らかとなった分析結果をふまえた上で,記事内容の詳細な読み込みと分析をおこなった。その結果は以下の通りである。
「戦前期」においては〈中国〉に関連・言及する記事(文章)の多くは,末尾が「~と云ふ」「~とぞ(云ふ)」といった伝聞形式で表現されており,記事作成者・執筆者の実体験ではない記事が多く見られた。また,記事の中には他雑誌・新聞からの転載記事が多く含まれ,例えば「上海發刊の某新聞に見ゆ」(『日本之少年』5-15)と記述されるように情報源が明らかにされないものも見られた。「戦前期」においては,確かに〈中国〉を肯定的に評価する記事も見出されるがそれは一部に過ぎず,「中国は文明化が遅れている」などとする漠然とした否定的な評価が多数であった。
「戦中期」になると,「戦前期」の記事内容では3割に満たなかった中国人の精神面に関する言及が4割を超えるようになる。この時期に〈中国〉に関連・言及する記事のほとんどが〈中国〉を否定的に評価する内容になるのは,日清戦争下の当然の傾向であろう。また「戦中期」には「戦前期」に比べて記事量が激増するが,その記述の型式は依然として「戦前期」と同様の伝聞形式が主体であった。
「戦後期」になると記事の様相が一変する。最も特徴的な変化は,〈中国〉に関連・言及する記事の内容が,「戦前期」「戦中期」に多くを占めた伝聞型式に代わって,記事作成者自身による現地からの報告や,記事作成者の中国体験によるものが多くを占めるようになったことである。また「戦後期」における記事では,町並み・人々のにおいや服装などの風景描写が細部に渡って緻密に記述されるようになったことも特徴的である。すなわち,より具体的で現実に近い〈中国〉,真実性・信憑性の高い〈中国〉を描き出そうとしていたと見られる。この時期の記事においても,「戦前期」「戦中期」に引き続いて〈中国〉を否定的に評価する内容が大半である。
以上の分析から,次の2つのことが明らかになった。
〈中国〉表象は時期に関係なく基本的に否定的・蔑視的なものが中心となって構築されていたこと。
〈中国〉表象の変化は,戦争によって急激に変化したのではなく,さまざまな情報によって徐々に補強・強化されていく過程であったこと。
以上の分析結果は,「日清戦争中から戦争後にかけて,否定的・蔑視的な〈中国〉像が形成された」とする多くの先行研究に疑問を呈するものとなる。この成果を踏まえた上で,今後も「〈中国〉表象の変化」について一層精査していきたいと考えている。
(泉陽一郎)