「出版物の変容に関する史的考察――読者の大衆化を中心として」鯉淵拓也(2017年5月 春季研究発表会)

出版物の変容に関する史的考察――読者の大衆化を中心として

鯉淵拓也
(日本大学大学院新聞学研究科修士[博士前期]課程)

 本研究の最終目的は,日本人の「出版物」の読者論・読書論をメディア史的な視点から構築し,読書による「教養」習得環境を再構築することである。その理由は,「一般教養」はリテラシーを向上させる一助となり,「歴史」を読むことで,人間形成の一助となり,また,社会の維持に不可欠な哲学や学問をするための土台となるからである。

 したがって,本発表の趣旨は,研究の橋掛けとして,「出版物」の歴史を概観しつつ,「教養主義」が盛んな1960年から1970年代頃を軸に,日本の「出版物の大衆化」はどのようなものかを考察することである。

 さて,日本では1996年頃をピークに書籍の全体的な売り上げが落ち込んでいる。1960年代,日本では教育的な「教養主義」が廃れはじめる。山の手族と称されたサラリーマンの社会的身分階層は崩壊し,大衆の一員となる。「教養主義」は第二次世界大戦により,国家主義的な意味を伴って,しばしば残留するものの,戦後には「教養主義」が崩壊する。かくして,サラリーマンや低層を中心とした大衆社会では,「岩波文化」や「講談社文化」に見られた出版「教養」(リベラルアーツ)は,虚学(実生活では役に立たないもの)として軽視されるようになる。これが戦後の「出版物の大衆化」のおおまかな流れである。

 現代に至るまでなされた一般読者の「出版物」の読み方には,3点考えられる。

 (1)〈ある読者が「気晴らし」に特化した「大衆」向けの「出版物」ばかり読む環境にいると,他の性質をもつコンテンツを読まなくなる「慣習」を身につけ,「大衆」読者になる〉。例えば,マンガばかり読んでいれば,マンガの持つ性質ばかりが読者に影響することになる。この考え方は「マクルーハン理論」 におけるメディアが持つメッセージ性(=性質)がある程度前提となっている。そこでは,読者は「時間」と「空間」を共有するのである。

 あるいは,(2)〈一般「大衆」読者は,作品の性質によらず,慣習的に解釈する〉。作品の個別の性質は些細な問題であり,いずれのコンテンツも,自由に解釈され,消費されうる。なぜなら,〈エンコーディング・デコーディング理論〉 をもとに考えると,どのように利用するか,受け取るかは,利用者が決定する事項だからである。

 最後に,80年代以降のポストモダン的な発想から,(3)〈一般社会では,作品の性質が何であったとしても,「大衆」は「大衆文化」を求め,「気晴らし」として無目的に消費することをおよそ望んでいる〉。「大衆文化」に共通する点には,流行や「ファッション」 の対象となりうる点や,当該コンテンツを「気晴らし」のために思考停止して享受できる点などが考えられる。したがって,「大衆」は,「大衆文化」を,「気晴らし」や「スペクタクル(イメージのためのイメージ)」 的消費目的で利用しているといえるのではないか。

 ルソーやデカルトのいうような「慣習」化は,子ども時代から常に「気晴らし」として「出版物」を読み続ける環境にいれば,そうした身体になると考えられる。このままでは,「学問」の基礎となる「教養」を身につけることはできないのではないか。「読む権利」の阻害(選択肢の減少),「反知性主義」による選別なども問題である。「文学」などを意識から追いやる「スペクタクル」作品の大波が,大衆読者の思考や慣習を「ファッション的消費」などの方向へと規定してしまっているのではないか。

 そこで,出版教育の面で考えられる対応策の方針について,3つの読書論的教育方針が挙げられる。(1)自由奔放(freedom)な読書環境,(2)制限された自由(liberty)な読書環境,(3)(大学院の研究と同じように)教師が導く(direction)読書環境,である。

 読書教育をはじめる時期としては,おおむね3つ考えがある。(1)そもそも,教養教育は文字が読めなければはじまらないが,読書を慣習化するために,産まれたときから文字に多く目を通すような「慣習」を身につけさせる教育を施す案である。(2)発達心理学の通説的な観点から,日本では,文字を読める段階(リテラシー=読み書き能力がある段階ではない)となる,小学校五年生(10歳)から,こうした教育を率先して取り入れていく案である。(3)生涯教育の観点から,「教養」(あるいは,「教養」書)を取り入れられるように,官財民一体となり,読書環境を整備する案である。

 これらの案をひとつ,あるいは,複合的に実行するためには,家庭での教育でも取り組むべきである。なぜなら,文字を読むことや,「教養」を身に付けることを被教育者に「慣習」として身体化させなければならないためである。

 したがって,本稿の仮説は「読書論」にはじまる。そして,「教養」がキーワードとなる。また,遠大な位置にある結論は,「読書論」の解明である。

 今後は「読書論」を明らかにするための小さな序説を構築していき,やがて論や論文を積み重ねていくことで「読書論」とは何かを結論付けなくてはならないと思う。