「出版の自由」と「出版の倫理」に関する一考察 栗山雅俊 (2016年5月 春季研究発表会)

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「出版の自由」と「出版の倫理」に関する一考察


栗山雅俊
(政策マネジメント研究所)


 昨今、報道や出版における「偏向」や「極化」の問題が取りざたされ、出版が社会に与える影響、特に昨今の極端な政治的主張やヘイトスピーチなどの社会現象に、出版が大きな影響を与える事例が多くなってきたことから、出版においても何らかの「倫理的態度」の表明が必要になってきている。本稿では、報道の自由とは異なる仕方での「出版の自由」について、倫理的立場の可能性を展望するための、予備的考察を提示することが目標となる。
 「出版の自由」が「報道の自由」と大きく異なるのは、「報道の自由」については、正確な報道、中立・公正・不偏不党に配慮した報道がなされるべきという「客観報道の原則」が英米圏ないし日本のジャーナリズムで堅持されてきたことによる。本来、ジョン・ミルトンやジョン・スチュアート・ミルらが活躍した啓蒙主義の時代では、出版の自由と報道の自由には区別がなく、「誤った意見でも表明されるべき」(J.S.ミル)という、強い意味での「言論・出版の自由」が表明され、「他から制限を課せられない」自由として共通のものであった。ところが20世紀に入ると、特にアメリカでは報道の寡占化に加え、イエロージャーナリズム問題や、第一次世界大戦前後の戦争プロパガンダ報道などの出現により、単に「報道の自由」を標榜するだけでは、市民社会において必要かつ健全な議論を阻害する可能性が指摘されるようになった。そこで登場したのが、報道においては事実と意見を峻別し、ニュース報道(事実の報道)については正確さ、バランス、中立性、不偏不党を守るべきという、「客観報道の原則」である。ここにおいて、報道は単なる「報道の自由」には留まらず、ある意味ではそれを抑制する、別の倫理的目標を負ったことになる。
 もちろんこれは「報道」に関する倫理であり、出版においてはそのまま適用されないことは明らかである。それでは「出版の自由」においては、どのような倫理的態度が期待されるであろうか。もちろん、出版が原則として「他から制限を課せられない」自由を持つことは堅持されねばならないが、出版に携わる者の「自発的な(自律的な)倫理」はあるのではないか、というのが今回の問題提起である。
 「出版の自由」は原則として保持されるべきであり、出版を営む者(著述の作者と出版者)はけっして「外的な規制によって」その活動を制限されるべきではない。しかしながら、出版にはミルトンらの啓蒙思想家が期待したように、社会において必要な真理を提供するために、健全で活発な議論を促進する「倫理的目標」を持つと考えられる。そこで、出版の倫理とは「出版に携わる者の、自らが自律的な態度で保持する倫理」という形になるべきだと思われる。その際、ミルトンらの指摘した、「開かれた討論の場」、「健全な討論」、「少数派意見の尊重」を、われわれの社会においてどのように実現していくかという問題になる。特に、現代においては、出版も報道と同様、出版に携わる者(出版者・著者)がごく一部の人間に限られ、そのことが市民社会における自由な討論の場という本来の目的を達成できない可能性が出てくると思われる。偏向・極化問題やヘイトスピーチに代表されるように、極端な主義主張が横行し、健全な議論が阻害される場合も考えられる。また、商業的、思想的、その他様々な理由によって、少数派の意見が採り上げられず、多数派の横暴のような事態を導く危険があるとも言える。出版においても、報道と同様、現代に即した何らかの「倫理的対応」が求められると考えられるゆえんである。
 以上のことから、出版の倫理とは、出版者自らが自律的な態度で自らに課す「責任ある自由」の倫理になると思われる。出版者は自ら意義を持つと考える著作物を刊行し、自身と著作者を守り、様々な批判に対しても自身の正当性を主張する自由と責任がある。この原則を保持した上で、さらに(1)開かれた議論、社会における活発な議論を推進すること、(2)社会における「多様な意見」を吸い上げること、(3)意見の「不寛容」を出来るだけ取り除くこと、(4)対立した意見については相互の対話の可能性を見いだすこと、(5)少数派の意見に留意すること、または少数派の抑圧を防ぐこと、という五つの倫理的目標を提言する。これらは「責任ある自由」を持つ出版者のいわば「倫理的目標」であり、けっして外から強制されるものではないが、出版者が社会における健全な議論の「守り手」として、自らに課す努力目標という形になると思われる。もちろん、上記の枠組みはあくまで一つのモデルであり、今後より適切な形へ改訂していく必要があるが、現代に即した「新しい出版の倫理」を再考、構築していくための一つの可能性を示すことが出来たと考える。