ICT(Information and Communication Technology)に依拠した学術出版に潜む危険 瀧川修吾 (2014年5月 春季研究発表会)

ICT(Information and Communication Technology)に依拠した学術出版に潜む危険
――研究教育者の立場からする警告

瀧川修吾
(日本橋学館大学准教授)

はじめに
 ICTの利便性は万人の認めるところで,むろん私もこれを否定するわけではない。しかし,出版物が執筆者と編集者,複数による共同作業で生まれる以上,そこには全関係者が警戒すべき,恐るべき陥穽が潜んでいるといえる。
 何人も望まぬ不幸な事故を防ぐには,具体的な事例の整理が必要といえ,まずは私自身の失敗例を紹介し,向後も進展が予想されるICTに依拠した学術出版上の諸作業で求められる危機管理の在り方につき,積極的な意見交換を行う目的で以下の内容を発表した。

1.文章校正ツールの功罪
 PCの文章校正機能は,人間に不可避のミスを機械の正確無比さで補完する有用な道具といえる。ところが,共同作業者が無自覚にこれを用いると,不自然さが残らず,原著者が慎重に確認しても変更箇所の特定が困難になってしまう恐ろしい面もある。
 事例の一つ目は,秋山和宏監修『小泉劇場千秋楽――発言力4』(三和書籍,2008年2月)の刊行においてで,原稿内容の細部が知らぬ間に変わるトラブルであった。原因は,出版社の新人が良かれと思って校正ツールを勝手に使用したからだった。新聞記事でも引用に無断で手を加えれば,当然,改竄になるというのが私の認識だったが,担当者にその意識は皆無だった。その後,出版社の適切な対応により,同書は無事に刊行された。
 二つ目は,ある重要な試験問題の作成中に起きた事例で,後日,過去問集となって公刊される文書だが,通常の出版過程でのトラブルではない。具体的には,選択問題における語群の一部が,作問者が用意した単語の同義語に置き換わる現象と,ある設問文章が,同じ出題形式の別の設問文章と差し替わる現象だった。危うく,前者は正解の選択肢がない設問,後者は解答者に混乱を招く不自然な設問になってしまうところだった。

2.原稿のメール送信とデータの取り違え
 私は大切な文書を書く際,ゲラ刷りのように書式設定した文書を何度も印刷して推敲を繰り返す,自主校正をおこなう。しかし,慎重を期して過去のデータをフォルダー内に複数残しておくことは,データ誤送の原因となりかねない。
 私の失敗例は,脱稿した原稿を紙幅の都合等で大幅に改めざるをえなくなった文書の作成で発生した。具体的には,一つのフォルダー内に似通った文書名のデータが通常の約2倍並ぶ中,何かの拍子に「名前」タブをクリックしてしまったようだ。すると「更新日時」順でフォルダー最上部にあった最新原稿は,中段にあった途中原稿と大した違和感なく入れ替わってしまう。もちろん意図的にデータ誤送をする筈もなく,これはあくまで私なりの推理に過ぎない。

3.パスワード機能付きUSBメモリの憂鬱
 機密性の高いデータを扱う研究教育者には,パスワード機能付きUSBメモリ(P-U-Mと略記)の愛用者も少なくない筈だ。私もその1人で,最近までこれをメーンのデータ記録媒体にしていた。ところが,安全の代償に発症したファイルの破損により,大切なデータの一部が消失する災難に見舞われた。
 事の発端は,データを使用していないにも拘わらず,ロックを掛けようとするとエラーがでて,PCからP-U-Mを外せない不具合だった。その後,何度も同じ現象が起き,バックアップがあるという安心感と時間的制約からやむなく,無理にPCからP-U-Mを引き抜いたことが数回あった。さらに,通常のUSBメモリと外観が似ているため,第三者がP-U-Mをロックせずに引き抜いてしまったこともあった。
 以上の「累積」がファイル破損の原因というほかなく,結局,責任は所有者が一身に負わざるをえまい。

むすびにかえて
 編集・出版に欠かせないのは,やはり当事者間のコミュニケーションを密にし,注意を喚起し合うことと,印刷紙による校正を厳密にすることだろう。さりとて学術出版の現況は厳しく,キーマンとなる経験豊富な編集者が手間暇かけて,執筆者をフォローしてくれる恵まれた環境は極めて稀だ。訓練を受けていない研究教育者が,執筆の傍ら編者や紀要委員の肩書で,編集作業の真似事を強いられているのが現状といえる。
 今回の事例と同種のトラブルは,今後もICTの進歩と共に,一層,複雑怪奇さを増し,日々当たり前のように起こり続け,利便性の代償では済まない厄災をもたらすだろう。向後,学術出版における危機管理やガバナンスの在り方が,学術研究の信用度と発展を担保するものとして問われることになろう。

 発表に際し,皆様から頂いた御意見を盛り込んだ論考を『出版研究』に投稿する存念です。有り難うございました。さらなる御意見もお待ち致しております。