五百木飄亭の文学的活動に関する一考察 石川徳幸 (2014年5月 春季研究発表会)

五百木飄亭の文学的活動に関する一考察
――『富士のよせ書』の編纂から『飄亭句日記』の刊行まで

石川徳幸
(日本大学法学部専任講師)

はじめに
 本報告では,飄亭と号した俳人,五百木良三(1870-1937)の文学上の業績に関して,文学史の視点だけではなく,メディア史の視点を含んだ複眼的な再考を試みた。具体的には,五百木飄亭が正岡子規とともに『富士のよせ書』を編纂した時期から,五百木の死後に『飄亭句日記』が刊行されるまでの期間を対象として,史料実証主義に基づいた歴史学の手法をもとに五百木が関与した文学的活動を詳らかにした。
 飄亭・五百木良三(以下,号を使用しはじめた時期を問わず飄亭と呼称する)は,明治中期から昭和初期にかけて活躍した俳人であるが,俳人としての業績のほかに,医者,新聞記者,政治活動家,出版社社長といった多様な経歴を持つ人物である。

正岡子規と五百木飄亭
 飄亭は,1889年にドイツ語の勉強を目的として上京し,旧伊予藩主の久松家が育英事業として経営していた常磐会の寄宿舎に入る。この前年,常磐会には正岡子規が入舎しており,かくして正岡子規と五百木飄亭が出会うことになる。常磐会時代,正岡子規と飄亭は『富士のよせ書』をまとめている。『富士のよせ書』は,古くからの文献を渉猟して富士山に関する記述を蒐集し,古来日本人がいかに富士山を見てきたのかをまとめた研究書である。その表紙には,馬骨生(子規)と鉄面生(飄亭)の名が編者として併記されており,この当時において飄亭は,正岡子規と比肩する存在であったと言える。
 こうした文学上の交流を通じて飄亭に対する正岡子規の信頼は厚く,子規は1894年2月に日本新聞社から『小日本』を創刊した際に,飄亭を記者として招いた。飄亭は日清戦争に際して,本紙『日本』に「従軍日記」を連載している。俳句紀行の趣を持ちつつも生々しく戦場の様子を活写した「従軍日記」によって,飄亭は大いに文名を馳せることとなった。

政治活動への傾斜と文学からの乖離
 子規が逝去した翌年,1903年の秋に飄亭は編集長の職にあった日本新聞社を辞した。これ以後,飄亭は日露講和条約反対運動や日韓併合推進運動,宮中某重大事件に関わる運動などに関与していく。政治活動に奔走した時期の飄亭の文学的な活動については,ほとんど記録が残されていない。しかしながら,1911年に興った子規庵保存会に名を連ねるなど,俳句を通じて築いた人脈との交流も維持していたことが確認できる。政教社の『日本及日本人』が正岡子規号を企画した際も,子規との思い出を綴った「追憶断片」を寄稿している。

句作の再開と『日本及日本人』主宰
 その後,1924年末に同人から句作を求められたことを契機として,1925年の初春から句日記を認めるようになり,1932年には柳原極堂が創刊した俳誌『鶏頭』に連載するようになる。これらの句作は飄亭の死後,政教社から『飄亭句日記』として刊行された。
 1929年9月,飄亭は寒川鼠骨らに乞われて政教社の社長に就任している。政教社の発行する『日本及日本人』は,かつて飄亭が編集長を務めた新聞『日本』の流れをくむ雑誌である。1923年に起った同誌の内紛以降,飄亭は政教社後援会に名を連ねて陰に陽に同社を援助してきた縁から,経営の再建を期待されて白羽の矢が立ったのであった。
 政教社社長として『日本及日本人』を主宰するようになった飄亭は,文学に関する記事には飄亭の号を用い,論説記事は本名の五百木良三で掲載した。飄亭の社長時代,1931年に政教社から村上霽月が『霽月句集』を出版しているが,ここに飄亭が序文を寄せている。この中で飄亭は「今や我が俳壇の盛んなる,真に千紫万紅の観がある。而かも党を組み派を樹てゝ互に覇を争ふ。当さに落花繚乱の一戦場である」と当時の俳壇を評している。飄亭がこうした文学に関する意見を披瀝する機会は,政論の掲載に比べてはるかに少ないが,1936年1月4日には「国体観念と俳句」と題したラジオ講演を行っている。飄亭は当時,天皇機関説排撃運動から国体明徴運動に関与しており,時局問題を俳人としての立場から論じたのであった。

おわりに
 総じて,飄亭の文学的活動は正岡子規の築いた日本派の系統に属する。日本派は,正岡子規や飄亭が記者として勤めた新聞『日本』を活躍の舞台としたことに由来するが,正岡子規の死後,飄亭は新聞『日本』を離れて政治活動に傾注し,日本派は伝統を重んじる虚子と新傾向を打ち出した碧梧桐の二派に分かれた。その後,飄亭は政治活動のかたわら新聞『日本』の流れを汲む政教社の雑誌『日本及日本人』の経営を援け,ついには政教社の社長に就任する。飄亭が主宰した『日本及日本人』は政論中心の雑誌であったが,和歌・俳句・漢詩を扱う文芸欄が常設されており,俳誌などの専門雑誌とは異なる立場から近代日本文学の一翼を担ったといえるだろう。