明治前期における“コピライト”概念の一考察  堀井健司 (2010年4月 春季研究発表会)

■明治前期における“コピライト”概念の一考察
 ――その「翻訳」という営みを通して
 (2010年4月 春季研究発表会)

 堀井健司

 今回の発表では,翻訳という行為とともに著しい発達をみせた蘭和・英和辞書,国語辞書に掲げられた「copyright」の項目をつぶさに調査し,その発達の過程とともにうつりかわりをみせた訳語の分析をとおして,明治前期における著作権概念の状況を捉えなおす基礎的な作業の中間報告を行なった.
 幕末維新期,知識人は,もっぱら書物で得た知識(欧米で直接に見聞きした経験をもつ者は頓に限られている)によって,西洋社会の理解を深めていった.この頃は,社会規範としての「法律」が注目された時期である.例えば,福澤諭吉『西洋事情 外編』によって日本に紹介され,彼が偽版とのたたかいで主張した「コピライト」(copyright,官許,蔵版の免許,版権)もその一例である.
 そもそも,維新前後の日本人の法意識の状況については,法社会学者の川島武宜は次のように指摘する.
 元来権利ということばは,徳川時代以来の固有日本語にはなかった.幕末に蘭学者が,今日の「権利」という言葉に相当するオランダ語のことば“regt”を訳するに際して,これに対応する適当な日本がないので困った.
 当時,西洋の文化に触れた蘭学者は,「regt」をどのように翻訳したのか.そして「法律」や「権利」,「版権」といった概念と,どのように結び付けたのだろうか.
 維新前後の日本では,外国語の書籍や文書を翻訳し,また外国人との交渉の必要から,辞書の開発が急務であった.辞書の開発はオランダ語,そして英語,フランス語,ドイツ語へと広がり,その作業はまずは既存の外国語辞書の和訳から始まった.
 そこで私は,翻訳という行為とともに著しい発達をみせた蘭和・英和辞書,国語辞書に掲げられた「copyright」(あるいは「right」)の項目に注目し,その発達の過程とともにうつりかわる訳語の調査を行なった.
 まず,ハルマ『蘭仏辞典』から連なるオランダ語辞書の翻訳によって成立した「蘭和辞書」の系譜として,『波留麻和解』(江戸ハルマ),『訳鍵』,『増補改正訳鍵』,『道訳法児馬』(長崎ハルマ,ヅーフハルマ),『和蘭字彙』をみていった.
 つづいて,ピカード編『英蘭・蘭英辞典』から連なる英蘭辞書の翻訳によって成立した「英和辞典」の系譜として,『英和対訳袖珍辞書』,『改正増補英和対訳袖珍辞書』,『和訳英辞書』(薩摩辞書),『英和対訳辞書』(開拓使辞書),『和英英和語林集成』をみていった.
 さらに,オウグルビー『英英辞典』から連なる英英辞書の翻訳によって成立した「英和辞典」の系譜として,『附音挿図英和字彙』,『明治英和字典』を,そして,ロプシャイト『英華字典』から連なる「英華辞典」の系譜として,『英華和訳字典』,『訂増英華字典』をみていった.
 最後に,日本人の手による「国語辞典」の例として,『言海』,『日本大辞書』にも触れた.
 なお,辞書の該当箇所の図影は,当日に配付した資料により一覧できるようにした.
 さて,今回の調査では,蘭和辞書では,「regt」(権利)という語は確認できたが,「コピライト」にあたる項目は見当たらなかった.また,英和辞書では,『英和対訳袖珍辞書』に見られた「copyright」の訳語が飛躍的に発展・充実したかたちで『改正増補英和対訳袖珍辞書』に記され,そして『和訳英辞書』,『英和対訳辞書』に引き継がれていることが確認できた.さらに国語辞典では,そろって「政府ノ保護ヲ受ケ」という文言がみられた.明治8年(1875年)改正の出版条例にはじめて採用された法令用語としての「版権」という語は,辞書の説明文にも浸透していったことが確認できた.今後は,調査の範囲を百科事典(encyclopedia)に広げ,実態を把握していきたい.
 明治前期における「権利」,rightの存在は大きな揺れ動きが見られ,それと同じく「著作権」という概念も揺れ動き,捉えにくい感がある.事例分析として,当時の知識人の周辺で展開された「出版」の活動をあらためて取り上げることは,明治前期の出版文化に新たな視点を与えてくれるであろう.
 発表に続いて行なわれた質疑応答の場面では,フロアから佐藤隆司さん,鎌田純子さん,中村健さん,そしてこの第二分科会の座長を務めていただいた志村耕一さんから,有意義な質問が提起され,発表の内容を深化していただいた.発表者の力量不足で必ずしも的確な,あるいは発展的な応答ができず,申し訳ない気持ちで一杯であった.とくに大手前大学の吉川登教授から頂戴した力強い助け舟に感謝申し上げたい.
 今年の分科会会場は例年に比べ小規模であったこともあり,日本出版学会での初めての研究発表は必要以上の緊張状態に陥ることなく,何とか終えることができた.良い経験をさせていただいた.運営に携わった方々,そして会場で聞いていただいた皆さんに謝意を表したい.そして,人の縁の大切さを再認識した経験であった.
 こうして,『会報』123号「新入会員メッセージ」に書かせていただいた所期の希望は,あまりにも早く達成できたことになる.初心に返り,引き続き研究に取り組んでいきたい.