「中西松香堂の江戸期書肆から明治期印刷会社への変容」 中西秀彦 (2019年5月11日 春季研究発表会)

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中西松香堂の江戸期書肆から明治期印刷会社への変容


中西秀彦
(中西印刷株式会社)


明治20年の壁

 日本には江戸期に多数の書肆が存在したことが知られている。しかしそのほとんどが明治20年ごろに姿を消している。また明治期における和装洋装本の変化でも明治20年(1887)が分岐点となることが統計資料より明らかになっている。江戸期の書肆は木版本により国学・漢学など江戸期の教養とされた書物を取り扱っていたが,明治になると没落する。
 現存する創業が古い書肆は仏教書を中心としていることが多い。仏教書は江戸期から一定の需要が存在し,明治になっても木版版の需要が大きく,明治20年を迎えても経営危機に陥ることが少なかったためと考えられる。それ以外,本研究でとりあげる★蓍屋嘉助を含む幕末創業の書肆は書店として生き残っている例もあるが,総じて江戸期書肆は特殊な業態でないと存続しにくいと言える。その中で印刷業に活路を見いだした蓍屋嘉助の幕末から明治にかけての動向を追う。

蓍屋からの中西松香堂分家独立と木版出版

 京都の中西印刷の前身である中西松香堂は慶応元年に蓍屋宗八向松堂から分家独立している。現存する蓍屋の印刷物はすべて木版であり,中西松香堂も木版印刷に起源を持つことは推測されていたが,木版時代の印刷物は発見されていなかった。ところが,近年国立国会図書館デジタルコレクションが整備され,それにより中西松香堂の初期出版物が見いだされ,研究が可能となった。国立国会図書館の蔵書で最も古い中西松香堂名義の出版物は明治10年(1877)の『日本略史字解』である。これは明らかに木版であり,製本も袋綴じで,江戸期和本の形態をとどめている。
 『日本略史字解』が中西松香堂のはじめての出版物であるかどうかは判然としないが,明治14年(1881)の『小学読本字解』の末尾に蔵版目録が掲載されており,そこには,『日本略史字解』はじめ国会図書館所蔵以外の図書の名前が多数列挙されている。すくなくとも明治10年頃には盛んに木版による出版活動を行っていたものと考えられる。

中西松香堂の活版印刷導入

 中西松香堂名義の出版で最初の活版印刷と判断できるのは,明治15年(1882)の『近古史談』である。『近古史談』は木版と活版が同時に使われており,製本は袋綴じで和本の伝統をとどめている。この本は当時相当に流行したらしく,同時期に数社から木版で出版されている。中西嘉助が木版で流行していた本を活版で出版したと考えられ,流行の本を素早く新しい技法で出版するところなどは,中西嘉助の出版人としての才覚が見て取れる。ただ本書以後類書が出されていないことから,ヒットしたとは考えにくい。
 中西松香堂の『近古史談』以後の出版物で現存するものはすべて活版印刷である。明治15年ごろを境に木版から活版への転換がなしとげられたと考えられる。中西松香堂に特徴的なのは,明治20年ごろから急激に京都府庁関係の出版が増えることである。嚆矢と考えられるのは明治16年(1883)『京都府管内学事統計一覧表』と『京都府御布達酒造人心得書』で前者は木版,後者は活版である。ただし前者は統計一覧であり,すでにこのころは活版が主流であったが,当時の技術ではまだ活版の表組みが難しいため木版としたと考えられる。またこのころから製本も袋とじではなく洋装本が中心となる。ただし,和本に似せたためか全ページが子持ち罫で囲まれている。これはこの過渡期に広く見られる版面形態である。

中西松香堂の京都府御用印刷商への展開

 中西松香堂は明治20年頃より京都府関係の出版が増えてくる。明治23年(1890)の『京都府布達要約』は布達をそのまま解説もなく記載しただけのもので,きわめて公的な性格のものである。その後も『官報要誌』などまったく京都府の出版物としてもおかしくない出版物が続く。
 このころの『京鶴鉄道問答』の末尾には当時の出版物の広告が載せられているが,ほとんどが京都府に関連する印刷物で占められている。明治12年の『小学読本字解』の広告がすべて教育関連であることを考えると,わずか10年で出版社としての性格が大きく変わっている。その上,この広告には「活版諸印刷物請負」なる広告が掲載されており,中西松香堂は印刷会社としての性格が強くなっていることがわかる。また中西松香堂の上に「京都府御用活版所」という文字が刷り込まれ,京都府の印刷の仕事を御用商人として引き受けていたことがわかる。

メディアの変化と出版

 江戸期書肆が明治以後存続しえなかったのは,木版から活版へのメディアの変化についていけなかったことが大きい。メディアが変化すると,内容も変化し,産業構造そのものも変化する。それに追随できる会社は多くない。中西嘉助もメディアが木版から活版となると同時に旧来の自社の出版得意分野だった教育を捨てて,あらたに京都府庁という得意先を見いだし,印刷会社として存続することを選んだと言える。