「戦後におけるナウカ社と大竹博吉――占領期・50年代における出版史の一側面」 吉田則昭 (2019年5月11日 春季研究発表会)

戦後におけるナウカ社と大竹博吉――占領期・50年代における出版史の一側面

吉田則昭
(目白大学)

 本報告では,占領期におけるソビエト文化の流入と受容を解明するため,ある左翼出版社の出版活動とその出版人の活動を明らかにした。ロシア語図書輸入ならびに日本語での雑誌発行を行っていたナウカ社(ロシア語で科学の意味)という出版社と,その社主であった大竹博吉の戦後の活動を取り上げた。報告者はこれまでも占領期の日ソ文化交流を,雑誌,映画,歌,組合文化といったマイナー・メディアが,その文化普及に貢献していたことを明らかにしたが,その一環として,この出版社・出版人の活動を紹介した。

 ナウカ社創業者・大竹博吉(1890-1958)は,愛知県岡崎市に生まれ,小学校卒業後,印刷工として働き,地元の新聞記者を経て,1910年代はじめに国民新聞,読売新聞,東京日日新聞の記者となり,1919年,東日のウラジオストック駐在員,同年,極東大学聴講生としてロシア史を学ぶ。その後,東方通信社ウラジオストック支局長,同社モスクワ駐在員から1925年に帰国。1931年から一年近く,朝日新聞社・中央公論社委嘱として,訪ソ視察でモスクワに滞在。その間,1932年にナウカ書店を神保町に開設する。帰国後,社名をナウカ社と変更し,ソ連国際図書公団との契約の下,ソ連図書・定期刊行物の一次取次・輸入販売,図書出版・雑誌発行などの出版事業を行った。こうした第一次ナウカは,創業の1932年から大竹が治安維持法で入獄した1936年9月まで,ソ連図書の輸入販売と併せて,雑誌『文学評論』『社会評論』を創刊した時期となる。

 戦前の大竹の活動については論ずべき点も多いが,報告との関連で重要なのは戦後である。大竹は,戦犯問題から日本の民主化,出版界民主化運動に加わり,民主主義出版同志会の結成に参加。このほか,ソヴェト研究者協会,日ソ文化連絡協会,日ソ翻訳出版懇話会の設立に参加して日ソ親善運動,ソビエト研究に力を注いだ。1951年以降は,ソ連の農業生物学者ルイセンコ学説の紹介に力を入れ,長野県でミチューリン運動を実践,1958年に68歳で逝去する。

 戦前・戦後とナウカ社が歩んできた時期は,1935年から2006年まで,通常三期に区分される。第一次ナウカは,創業した1935年から大竹が治安維持法で入獄した1936年9月までの時期。そして,第二次ナウカは,1945年から会社を閉鎖する1951年12月までの時期。第三次ナウカは,ロシア語書籍輸入をメインの業務として再スタートした1952年9月から,破産・閉社する2006年までの時期である

 こうした流れから,本報告では,第一に,戦後のナウカ社と大竹博吉の活動,特に戦犯追及のための出版界民主化運動に加わり,日本出版協会と自由出版協会に二分される「二つの出版団体」問題へと発展する経緯を各種資料から取り上げた。1946年1月末,戦争責任をめぐって出協による自主的粛清措置を不満とする大日本雄弁會講談社,主婦之友社,旺文社,博文館など21社は,出協を脱会,新団体・自由出版協会を4月に発足させた。こうした二つの出版団体の存在が,後々まで出版業界の「用紙のうらみ」からくる対立として禍根を残すことになった。大竹が出版界民主化に奔走したこの時期はとして,1945年の出版社再興,1946年1月に再刊した『社会評論』が廃刊する1949年までと,その後会社を閉鎖する1951年12月までの第二次ナウカ期にあたる。

 第二には,占領期・講和独立後の日本においてGHQ・在日米軍からこの左翼出版社・出版人がどのように検閲・監視されてきたかを米国側資料から解明し,従来の出版史において取り上げられることの少なかった占領期の左翼出版社のあり方から,隠れた戦後出版史を紹介した。

 本報告のまとめとして二点指摘した。第一は占領期,大竹も関わった出版界民主化運動は,CIE(民間情報教育課)が当初,戦犯追及を後押ししていたこともあり,戦犯追及と用紙獲得を絡めて自社の出版事業の伸長,運動発展を目論んだが,のちにGHQの中立姿勢の前に当初の勢いのみで終わってしまった。GHQ民主化政策の変化によって出版メディア政策も二つの出版団体双方のバランスを取ったものとなった。

 第二に再刊した雑誌『社会評論』によって戦前に抑えられていた言論が復活した様相を呈し,一定の言論自由の下で主張を展開できた。CCD(民間検閲支隊)は大竹やナウカ社だけでなくソ連関係の人物・団体を雑誌検閲,郵便検閲で,その動向を逐一マークしていた。講和独立後もGHQの後継となった米陸軍情報部はCIE・CCD・CIC(対敵諜報部隊)からのファイルを引き継ぎ,MIS(在日米軍・陸軍情報部)個人ファイルにも残された。

 ソビエト文化流入の一局面としてのナウカ社の活動は雑誌発行の隆盛・衰退とともに潰え,大竹もアメリカの監視網の下におかれていたことを各種資料から報告した。