博文館『少年少女譚海』の編集方針とその変遷  中川裕美 (2010年11月 秋季研究発表会)

博文館『少年少女譚海』の編集方針とその変遷        中川 裕美
(名古屋大学大学院)(2010年11月 秋季研究発表会)

 
 『少年少女譚海』(以下『譚海』とする)は,1920(大正9)年 1月に博文館より発行された.『譚海』が創刊された当時,主要な少年少女雑誌はすでに出揃っていた

 後発だった『譚海』は,(1)少年少女の両方を読者対象とする,(2)雑誌のサイズを B6判とする,(3)雑誌の価格を安価にする,(4)独自企画の懸賞ページを設けるなど,他誌との差異化を図った.『譚海』の発行部数に関しては不明だが,編集者だった新井弘城は『譚海』の売れ行きについて,「一部十五銭(のちに協定で値上げ)で安かつたせいもあり,創刊号五万部が,売りきれとなつた.再版する話もあつたらしいが,実現せず,二号から部数をふやしていつた.この好評にあちこちで同種類の雑誌がつぎつぎとあらわれ,十種近くになつたが『譚海』はいつもトツプに立つていた」(注1)と回想している.
 雑誌の総合誌化が進む中で,『譚海』は創作読物中心の雑誌作りを特色としていた.創刊号の目玉として,『少年世界』の編集長であった巌谷小波の「義経物語」,武田仰天子の「三國志物語」,鹿島鳴秋の「小人島奇譚」の三作品が長篇小説として掲載された.読物の中で最も多かったのは偉人伝で,日本と外国の両方の物語が掲載されていた.また,女性を主人公にした読物を掲載したり,目次の挿絵に少年少女を描くなど,「少年少女」の双方を読者対象としているという配慮が見られた.
 1930 年代になると『譚海』のための新作が多く掲載されるようになっていく.山
本周五郎,横溝正史,サトウ・ハチロー,野村胡堂,高垣眸らによる長篇・短篇読物
のほか,口絵や漫画読物が数多く掲載されただけでなく,毎号数種の付録も付けられ,
雑誌の内容は大きく変貌した.雑誌の総ページ数も,1938(昭和13)年には324ページ(19 巻9 号)となり,定価も40 銭(19巻1 号)になった.『譚海』の歴史を考え
た時,この頃が最も充実した時期であったと言えるであろう.
 その一方で,1934(昭和9)年頃から次第に戦争の色が濃く見られるようになっていった.誌面の軍事化に呼応するように,徐々に女子向けの作品が減っていき,1937(昭和12)年にはついに表紙から女子の姿が消えた.
 雑誌の内容が大きく変わっていった背景には,国策による出版統制があった.規制によって統廃合を命じられた雑誌もあり,雑誌の生き残りをかけて『譚海』は編集方針を大きく変えていくこととなる.
 1940( 昭和15) 年,21 巻1 号より,誌名が『科學と國防 譚海』に変更された.
 娯楽的な読物はほとんど無くなり,その代わりに軍事色の強い記事が中心となった.中でも最も多くページ数が割かれたのは科学記事だった.僅かに残っていた読物も愛国小説や戦争小説,空想科学小説などに変わった.こうした傾向は年を追う毎に強くなり,廃刊の年である1944 年には誌面のほとんどが署名記事による科学記事で埋め尽くされた.
 記事だけでなく雑誌の表紙も軍事化が進み,創刊から続けられていた可愛らしい少年少女に代わり,戦時標語や軍人などが描かれるようになった.
 更に,読者年齢も「二十歳前後の男女」まで引き上げられた.『雑誌年鑑 昭和17年版』には,「二十歳前後の男女に平易なる科學知識國防思想の普及を圖る」と記され,あくまでも「男女」を読者対象としているように紹介されている.しかしながら,兵士の慰問や銃後生活の工夫という当時一般的であった「女性の役割」について書かれた記事は,実際にはほとんど掲載されていない.1940 年以降の『譚海』は,現実「には男性読者を主とした編集へと変更していたと考えられる.
 以上の点から,『譚海』は1940(昭和15)年,21 巻1 号から全く別の雑誌となったと言えるだろう.
 雑誌の顔であるはずの誌名も変え,時局に迎合した誌面作りをしてまで生き残りをかけた『譚海』であったが,敗戦を待たず1944(昭和19)年3 月に廃刊に至った.廃刊の理由については「くろがね会発行ノ「海軍報道」ニ統合ノ為メ」とされている.
 現在,これまでに筆者が確認出来た最後の号は,1944(昭和19)年,25 巻3 号で,この号の価格は28 銭,総ページは80 頁であった.
 『譚海』の創刊から廃刊までを概観すると,総合誌化の流れの中で,あえて創作読物を中心とした雑誌作りを行ったり,戦時中の生き残りをかけて創刊からの理念を翻し,青年向け科学雑誌に大転換を図ったりと,出版史の観点からも非常に興味深いものがある.ところが,少年少女雑誌研究の中に『譚海』を位置づけた時,その存在はほとんど見えてこない.今後の研究が期待される.
 なお本報告は,2010 年4 月に金沢文圃閣から発行された拙著,『『少年少女譚海』
目次・解題・索引』の成果を基としている.

(1)新井弘城,1965,「『少年少女譚海』創刊のころ」,『児童文学への招待』,414 頁,南北社