「1920年代の反理論とその帰結」新藤雄介(2017年12月 秋季研究発表会)

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1920年代の反理論とその帰結
――社会運動における渋谷定輔・『農民自治』と『文芸戦線』の分岐点


新藤雄介
(福島大学)


1.問題の所在と研究の方法

 大正14(1925)年、福本和夫(北条一雄)が理論誌『マルクス主義』に登場して以降、「理論闘争」が発展していった。そのため、1920年代の社会運動状況として、理論が重要な要素を占め、極めて高度化していく状況があった。
 しかしながら、当時の知識人でさえ、福本の高度な論考は理解不能なほど難解になっていた。そこで本研究では、1920年代における社会運動の中で、マルクス主義を中心とした理論に対して、当時の人々がどのような認識を抱いていたのかを明らかにすることを目的とした。
 特に着目するのが、農業に従事しその視点から運動に参加し、中西伊之助とともに『農民自治』を創刊する渋谷定輔である。資料としては、社会運動に関連する雑誌とともに、富士見市立中央図書館に収蔵されている渋谷定輔文庫の日記原本や手紙などを使用した。

2.『文芸戦線』内部からの理論批判

 プロレタリア文学雑誌『文芸戦線』の同人であった中西伊之助は、『文芸戦線』1926年8月号で、マルクス主義者たちが現実を見ずに概念的になっているとして、マルクス主義者の水野正次を批判した。これに対して、水野からの反論と、中西からの再批判が行われた。同種の論争は、10月号における合評座談会でも生じ、水野正次と山田清三郎が小堀甚二の理論不足を批判したことに対して、小堀が理論の振り回しを批判し、水野が謝罪する事態が発生した。こうした理論偏重への批判は、読者からも寄せられていた。

3.『農民自治』の反理論

 大正15(1926)年4月、中西伊之助・渋谷定輔らが農民自治会を設立し、農民による農民のための運動を開始する。その機関誌『農民自治』では、農民が理解できる平易さを旨とした。設立者の1人だった渋谷は、理論をそのまま信じてはいけないことや、理論が現実を捉えられていないことを、日記や雑誌で主張していた。同様に農民自治会の会員からも、当時の理論闘争を始めとする理論偏重の状況に批判が寄せられ、反理論的態度が形成されていた。

4.反都会主義のすれ違い

 農民自治会では、機関誌『農民自治』の創刊号に標語の1つとして、反都会主義を掲げた。そのため、中西伊之助は『文芸戦線』1926年7月号で、農民が地主と都会による二重の搾取を受けていると主張した。しかし、会のこうした反都会主義は、『文芸戦線』からは理解されることがなかった。『文芸戦線』内部では反理論(理論批判)には一定の支持が集まるが、反都会主義には支持が集まらなかった。これが、『農民自治』と『文芸戦線』の分岐点であった。

5.反理論の理論

 農民自治会は、当初は政治と関わらない方針であったが、昭和3(1928)年1月の第1回男子普通選挙が迫ると、政治という現実に対応する必要に迫られた。その際に、農民の体験を理論化し、政治に対応する必要があるという認識が生じて来た。『農民自治』1928年4月号で鑓田研一は、マルクスやエンゲルスの理論を否定しつつ、農民の生活実感を理論化することを主張した。農民自治会は、組織改編を行うこととなり、研究部を設立し、理論重視の方向へと転換していくことになった。

6.本発表の射程と知見

 当時の反理論的態度は、『文芸戦線』から派生した『戦旗』でも生じており、読者は難解な内容に消化不良を起こしていた。こうした状況に対して、編集部や一部執筆者は気付いており、一般大衆を置き去りにしていることに危機感を抱いていた。以後も、表面的には理論の高度化が進んでいったが、その裏では同時に反理論的態度がうごめき続けていた。