本シンポジウムは,次のような問題意識のもとに開催された。パネラーの発言要旨と併せ当日の概要をレポートする。
雑誌ジャーナリズムは,新聞や放送のような組織ジャーナリズムの側面を持つとともに,積極的にフリージャーナリストを活用して,彼らに活躍の場を与えてきた。このたびの『週刊朝日』の橋下徹特集記事問題は,良い意味でも悪い意味でも,この特徴が明確になった事件である。佐野眞一氏と『週刊朝日』によって投げかけられた問題の中で,雑誌ジャーナリズムが内包する課題は何か。他のメディアにはない問題点や意義を浮き彫りにしたい。
パネリスト(発言順,敬称略)
島田 真(『文藝春秋』編集長)
藤田康雄(『週刊現代』編集長)
三重博一(新潮社出版企画部長・『新潮45』編集長)
中川淳一郎(ニュースサイト『NEWSポストセブン』編集者)
司 会
塚本晴二朗(日本大学法学部新聞学科教授)
塚本:橋下徹・大阪市長の『週刊朝日』記事の問題では,所謂組織としてのジャーナリズムの側面がある反面,佐野眞一というフリーライターが記事を書いているという面もあった。それは,雑誌ジャーナリズムの1つの特徴ではないかと私は思う。こうした「雑誌ジャーナリズム」の特徴について,どのように考えるか,伺いたい。
島田:まず,「雑誌ジャーナリズム」の意義や使命について。私は,社会で権威とされている人たちや特定の業界のタブーに敢えて挑むということでしか,具体的な「雑誌ジャーナリズム」の使命はない,と思う。新聞やテレビを見ていても,新聞社の人たちと付き合っていても非常にサラリーマン化していて,独自にニュースに切り込んでいくという人はほとんどいない。数少ないNHKのディレクターやプロデューサーだけは,その能力を持っているようだが,記者クラブに慣れたメディア人は,自ら事実を検証するという姿勢すら乏しいのではないか。もう1つ,ネットがあるが,ネットのニュースサイトは,独自の切り込んだ情報や識見のある記者が乏しい印象だ。記事の裏取りも甘い。
私自身は「雑誌ジャーナリズム」と言う言葉は,実は嫌いで,編集部内でもそう言ってきた。この言葉が言われるようになったのは,ここ10年ぐらいのことだと思う。かつて,新潮さんが鈴木宗男をとりあげ,田中真紀子や辻本清美といった政治家のことを各誌が書き,辞職されたり逮捕されたり自殺された方もいた。そして,雑誌が社会の抵抗力というように認知されてきたのが,その頃だと思う。それまでは,週刊誌ごときがといった感じで,私が20代の頃に政局の取材をしても,政治家のコメントもままならなかった。昔と今ではまったく,雑誌の影響力が変わってきたと思う。
いま,少し問題だなと思うのは,何かを追及しなければいけないという使命感が逆に先に立ち過ぎてしまっていて,悪く言えば,悪者づくりをしてしまいかねない恐れがあることだ。たとえば芸能人の一挙手一投足を,大問題であるかのように報じる記事には,読者も果たしてそこまでの問題なのか,と思うだろうし,社会も息苦しいなという感じになってくる。こうしたことが,次第に透けて見えるようになってきたと思う。
私は極論をいえば,「雑誌ジャーナリズム」という言葉は忘れた方がいいのではないか,と思う。昔に戻って,たかが週刊誌,ということをわれわれも感じた方が良いのではないか。自分が編集長のときは,週刊でも月刊でもジャーナリズムだと思ったことはない。単に好奇心で面白いことだから載せようとか,何かを取材してこの人物は許せないだとか,この一線を越えたら書かなければいけない,といった気持ちだけで記事をつくってきている。ジャーナリズムという言葉に縛られず自由に発想した方が,いまの時代は良いのではないかという気がする。
藤田:「雑誌ジャーナリズム」は,私もどちらかといえば好きな言葉ではない。なぜなら,やはり雑誌ジャーナリズム云々というと,少し上から目線というか,格好つけすぎ,といった感じになるかなと思う。ちょうど『佐野眞一が殺したジャーナリズム』の中で,ノンフィクション作家の安田浩一さんが触れているが,「佐野眞一さんに問題があるとすれば,もしかすると自分自身が権威になってしまったからではないか」という指摘があった。
つまり,「雑誌ジャーナリズム」という言葉を使っている段階で,もしかすると権威になってしまうのかもしれない。これからの雑誌ジャーナリズム云々,出版界の未来は云々ということで言えば,決して権威になってはいけない,ということが一番重要なことではないかなと思う。
三重:私も島田さんの意見に賛成だ。別に「雑誌ジャーナリズム」をやっていると思って仕事をしているわけではない。そこが雑誌の一番の特徴で,結局,すべては個別の問題だということ。ある題材を取材し,どう表現するかは,編集長・担当編集者・書き手という,そのときの編集チーム次第。雑誌は元来,個別なもので,ひとつひとつの記事は誰の手によるものかによって変わってくる。それが雑誌の多様性を生むわけで,そうした多様性が新聞などの大きなメディアとの違いでもある。非常にパーソナルで手作りに近いというのが雑誌のいいところであり,時にそれが短所にもなる。
わかりやすい例として橋下氏についての記事の話をすると,『新潮45』は2年前(2011年)の11月号で「『最も危険な政治家』橋下徹研究」という特集を組んだ。そのトップ記事が話題を呼んだ上原善広氏の「孤独なポピュリストの原点」だ。実は橋下氏の出自に触れた記事としてはこれが一番最初というわけではなく,藤田さんが編集長を務めていた『g2』でも先行する記事があった。ただ,その記事ではまだたどりついていないところがあり,われわれはさらに取材を進める中で,父親が暴力団員であったことにたどりついた。問題はそれをどう表現するか。タイトルに「橋下徹の父親は暴力団だった」と打つこともできたが,その選択をしなかった。それは,私の趣味ではない,それに尽きる。「『最も危険な政治家』橋下徹研究」という特集タイトルを付け,その中の一本として「孤独なポピュリストの原点」と付けることで十分だと考えた。ただし,リードでは暴力団員だったことは入れた。しかしこのことは,いたって個別の,現場ごとの話であって,「雑誌ジャーナリズム」という言葉で一括りにされるのには違和感がある。つまり,同じものを扱っても,だれが扱うかによって全然違うし,それはもう個々の判断だということ。ひとつ言えることは,『週刊朝日』のような「ハシシタ 奴の本性」といったタイトルや記事のつくりかたは,私はしない。
「雑誌ジャーナリズム」は長所・短所を含め,特徴は個別的な媒体であり,個々の編集者の嗜好が強く出てくるということ。編集長の交代はもとより,月刊誌なら7・8人で作っているが,一人抜けて新しい人が入るだけで,従来とちょっと違う記事が出て来る。その時その時のチームの等身大のものが出てくる,と思っている。それ以上でも,それ以下でもない。
中川:あまりジャーナリズムとは関係ない仕事をしてきたので,私は『週刊○○』といった編集部の人たちを憧れの目で見ていて,「雑誌ジャーナリズム」カッケーよ!と思っていた。しかし,ネットの時代が来て,一般の人たちがいろいろと意見を言えるようになった時に,「雑誌ジャーナリズム」は「(笑)」になってしまう。これが,ここ数年間変わったことだと思う。
それを最も端的に表した,と思ったのは,2008年の『FLASH8月19・26日合併号』(光文社)の記事。2004年オリンピックのマラソンの金メダリスト野口みずきさんの実家に行って,お父さんから話を聞いた。実は,野口みずきさんは,父親と生き別れになっている。その別れた父親に対して,山崎さんというライターが突撃した。そして,野口みずきさんにコメントはないかと彼が聞いたところ,「そっとしておいてくれ」と言った。その模様を『FLASH』誌上で克明に再現した。
そして,あろうことかこのライターは,ブログで取材裏話を全部書いてしまった。するとネット上では,記者に対するバッシングが起こった。なんでお父さんが嫌がっているのにわざわざ話を聞いたんだ,と。そこが「雑誌ジャーナリズム」の限界だなと思っていて,クレームがめんどくさいのに他ならない。クレームしやすい社会になってしまったがゆえに,「雑誌ジャーナリズム」は「(笑)」になってしまったと思う。
結果的に,野口みずきさんがケガをしてオリンピックに出られなかったのに,ネット上ではライターのせいで出られなくなった,といわれている。「お前の記事で野口みずきが追い詰められた」と。
結局,一般の人からすると,「雑誌ジャーナリズム」というのは,弱い者やいい人を叩く悪いものだ,と思われているのがここ最近だと思う。
塚本:一通り伺ったが,皆さん「雑誌ジャーナリズム」という言葉自体の否定から始まっています。
島田さんと藤田さんに尋ねます。基本的に「雑誌ジャーナリズム」という立ち位置を取ること自体に問題があるとお考えのようです。では,雑誌の原点はどにある,と考えるか。この先,雑誌や週刊誌が生きていくために,原点と考えるものをそのまま生かしていけばいいものなのか,それとも,考えなければならない課題があるのか。
三重さんに質問です。雑誌は個別のもの,極めてパーソナルなもの,と聞きました。では,雑誌はネットの時代にすごくマッチしたメディアと考えてよいのか。ネットのニュースサイトとの共通点,あるいは相違点は何か。
中川さんに聞きます。クレームは,雑誌ジャーナリズムにとって非常に面倒くさいものというのは,その通りだと思う。では,雑誌はニュースサイトのような方向で生きていけるものなのか。今後の雑誌の生き方をどう考えるのか。
島田:三重さんの言うとおり,雑誌はハンドメイドの商品である,ということに尽きるなと思う。戦後,文藝春秋の池島信平編集長は,第一に読者,第二に自由,第三に良識,第四に事実,第五に面白くなければならないと方針を立てた。やはり,いわゆるジャーナリズムではないと思う。例えば,たまたま売れた企画を,他に目玉の記事がなければ,第2弾,第3弾と大きく続けていくことになる。内容は薄くなるかもしれないが,いけるところまでいこう。これがある一面の現場の感覚だ。このように融通無碍に,悪くいえば行き当たりばったり作っているものを,ジャーナリズムと呼ぶことに抵抗を覚える。
雑誌の電子書籍は時間の問題だと思うので,もっと安く,より読みやすく,例えば検索語入れたらそのページに飛べるなどの工夫がされてくれば,より普及するのかもしれない。ただネットについては,果たしてビジネスとして単体で成り立たせるところまでいくのかどうか,疑問がある。
藤田:「雑誌ジャーナリズム」について話したい。私は92年に社会人になって,『週刊現代』に配属された。当時はオウム事件,阪神淡路大震災,色々な殺人事件があった。現場に行ってみて思ったのは,新聞やテレビは「正規軍」だということ。記者がいて,カメラがいて,テレビには照明なんかもいて,支局があり,宿泊所もあったりする。そうした正規軍に圧倒されて,私たちは「ゲリラ」なのかなぁ,とよく思った。孤独な戦いで圧倒されるが,やはり「雑誌ジャーナリズム」の原点は,ゲリラ戦にあると思う。つまり,チーム取材は大切だが,作家とか編集長とか,そうしたひとりの感性が,多くの人の興味や共感を得るためには,ゲリラ戦が必要で,それが「雑誌ジャーナリズム」の原点であると思う。
今後,ネット社会になってマスコミがどう変わるにせよ,この点は変わらないと思っている。ネットで記事が出て,ネット右翼的な人たちが批判したり,あるいは炎上したりすることもあるかとも思うが,その理由は記事がつまらなかったり,反感を買ったということで,それは編集長の負けだと思う。
繰り返しになるが,ネット社会になったからといって,おもしろいと思ってもらえる記事の本質は変わらない,と思う。但し,インターネット時代ならではの表現の方法があるのではないか,とは思う。
三重:ネットと雑誌が明らかに違うのは,ともにパーソナルな問題意識で始まっているけれど,雑誌は最終的に作ったものに関して,品質保証をすることだ。手間暇かけて校正して,チェックをして,間違いがないことを確認して出している。そこが個人個人で書き飛ばしているものが多いネットとは決定的に違う点だと思う。それこそが編集者の役割で,記事を企画し,中身を保証し,責任を持つということ。読者は「なぜこの雑誌はこの人に原稿を依頼しているのだろう」と思う。「この筆者だから読んで欲しい」というのが,われわれの選択であり,確信をもって出している。つまりそれは,われわれ編集者の目利きの能力が常に問われているということでもある。
ちょっと時代が変わったなあと思うのは,昔はAという議論をした後に,翌月に全く逆の反対意見のBをもってきて,A→B→A→Bという風にずっとネタを引っ張っていくという手法を総合誌ではよくやっていた。この間,それにならって試しにやってみたところ,反論のほうは全く注目されなかった。昔のようにAをやって反論Bをやって,というのはできなくなってきている。サイクルが短くなっていて,もうそんなに長くネタがもたない。それはネットの時代の影響かもしれない,とは思う。
中川:私は,雑誌がやるべきだと思っているのは,誌面に電話番号・ファックス番号の掲載をするな,ということ。それが載っているからクレームが来る。書いていることは我々の編集方針だ,それが憲法だ!というくらいの強引さ・傲慢さで雑誌を作っていい,と思っている。読者のことを全然考えず,やりたいことやっている雑誌でも,売れているならいいじゃん。電話番号を見つけて,ネットで広げている,これが非常にウザい。なので,少なくとも「対話をしない」というスタンスが重要かなと思う。
とはいえ,私たちも一応サイトで問い合わせフォームを作ってはいる。なぜ作っているかというと,グーグルはニュースサイトに問い合わせフォームがない場合は,ニュースサイトとして認めないという方針を持っている。だから,グーグルニュースに取り上げてもらうためだけに問い合わせフォームを作って,無数のクレームメールはすべて無視する。わざと半角じゃないと受け付けないとか,難しくすると途中でいやになっていなくなる。だから,安易に電話番号を載せるというのはダメだと思う。問い合わせフォームも実名のみとかハードルを高くすると途端に減る。
本当に迷惑をかけた人なら,それはお詫びすべきだし,裁判もお受けするが,どうも,当事者ではない,怒りの代理人のような人が怒ってくる。
質疑応答・討論:フロアとの質疑応答では,まず「ジャーナリズムだとは思っていない」という発言に対して,かなり批判的な質問が出た。しかし「ジャーナリズム」であるかないかについては,非常に感覚的なものであり,むしろ雑誌は,読者と同じような視線からものを見るとか,ゲリラ的な部分があるとか,ハンドメイドなものであるというように,新聞や放送と同じ「ジャーナリズム」という言葉で括られることへの違和感から来ていたようである。
また,雑誌には,出版社という組織のジャーナリズムである点と,その雑誌の中でフリーのライターがある程度任されて書いているという点とが,重なり合うという性格についての質問があった。特に何か問題が起きた場合の責任の取り方等にたくさんの議論が集中した。
さらに今後雑誌はどのように生き残りをかけて進んでいくのかについても意見が交わされたが,全体的には,これまでやってきた雑誌の作り方を大きく変えるのではなく,むしろそうした手法を継続していくことが大切である,という考えであったようだ。
(文責:塚本晴二朗)