『私の出版研究』  川井良介  (初出誌:『出版ニュース』2008年7月中旬号) 

■ 『私の出版研究』  (初出誌:『出版ニュース』2008年7月中旬号)

   川井良介

出版研究の過程をふりかえりながら

渋谷のタウン誌『あんふあん渋谷』の創刊

 一九七七年,日本出版クラブで行われた春季研究発表会における「即売ルートの歴史」が私の学会デビューであった。これは,修士論文「週刊誌の流通過程に関する研究」(明治大学大学院)をもとにした発表である。この研究は当時,大きなパワーを誇っていた週刊誌の流通の歴史を考察したもので,実際は即売ルートの歴史研究であった。
 大学院への進学は研究者になるためではなく,雑誌のパブリシャーになるためであった。今から思えば,どこかの出版社に入って,仕事を覚えてから独立するというコースが考えられて当然であったが,若気の至りかそういう選択はしなかった。
 大学院に籍を置いたまま,小学校以来の貯金と日本育英会の奨学金を注ぎこんで,渋谷のタウン誌『あんふぁん渋谷』を創刊した。タウン誌はブティックや喫茶店などを会員とし,会費をいいただく代わりに広告を掲載するシステムなので,比較的少額の費用で発行できる。
 当時は,若者文化が花盛りで『朝日』の若者欄に「安不安のタウン誌」と揶揄された見出しの紹介記事が掲載されたこともあった。しかし,会員獲得の営業不足とオイルショックによる紙の値上がりで,この雑誌は文字通り3号でついえた。
 今後の身の振り方を考えていると,指導教授の中野渡信行先生が,マス・コミュニケーション研究をすすめ,大学教員の可能性を示唆して下さった。研究者としての才能には自身がなかったが,よき教師にはなるかもしれないと思った。
 ありがたい先生のお話であったが,タウン誌発行のため,修士論文作成の準備は全くなかった。修士課程三年生にならざるを得なかった。明治大学大学院には,マス・コミュニケーションやジャーナリズムの研究者がいなかったので,将来の博士課程進学のために,上智大学大学院文学研究科(新聞学専攻)に聴講生として通学することとなった。
 初めて学ぶマス・コミュニケーション関係の科目は楽しいものであった。しかし,この一年で修士論文が作成できるわけではない。なにより研究テーマが見つからない……。雑誌ジャーナリズムをテーマにしたいと思ったが,研究方法が判らないので諦めた。
 修士課程は四年間しか在籍できない焦りのなかで思いついたのは「雑誌の流通」である。先のタウン誌発行については,本のデパート,渋谷の大盛堂の船坂弘社長から,雑誌を売るためにトーハンの担当者を紹介され,訪ねたことがあった。
 このような経験から,「雑誌の流通ルート」とりわけ当時勢いのあった週刊誌のそれをテーマにすることとした。当時,銀座にあった日本ABC協会を訪ね「ABC公査レポート」によって,週刊誌の場合,キヨスクや街頭の新聞雑誌スタンドの即売のシェアが大きいことを知った。
 たとえば,一九七四年において,即売ルートのシェアは『週刊新潮』五四・二%,『週刊文春』五八・八%,『週刊現代』五一・四%,『週刊ポスト』五六・七%と,いずれも五〇%以上であった。有力な新聞販売店のルートのある『週刊朝日』でも,新聞販売店のそれよりも大きいシェアを占めていたのである。
 そこで,中心的テーマは,この即売ルートの歴史を明らかにすることとした。この関係文献の検索で,伊勢多次郎『新聞販売我観』一九二八や大西林五郎『日本新聞販売史』一九三一などを得ることができた。これらの記述は昭和六年頃までで終わっていた。
 そのため論文の中核は,それ以降の歴史を探求することにした。そこで,四大即売や鉄道弘済会などを尋ね,インタビューと資料の提供をお願いした。「そんなこと調べなくてもよい」と,塩を撒かれるような目にあったり,何度も訪ねてもインタビューに応じて貰えないこともあった。しかし,多くは快くインタビューの機会を与えて下さった。なかにはランチや食後のコーヒーまでご馳走して下さった方もいた。
 このような過程を経て修士論文「週刊誌の流通過程に関する研究即売ルートの史的考察」を完成することができた。

歴史研究のトレーニング先輩学者との出会い

 歴史研究のトレーニングを教授されたことはなかったが,修士論文をもととした「戦前期の即売ルート」(『出版研究』八号)に対して,「研究の目的と問題の範囲,研究の方法と資料の説明を明示して歴史記述に至るという,実証史学の手続きを立派にふんだ好個の科学論文である」(箕輪「科学以前,科学以後」『出版研究』一〇号)という過分な評価をいただいた。 これは,上智大学大学院の聴講生のとき,川中康弘先生のタイプ印刷のテキスト『マス・コミュニケーション調査』において学んだ「論文の書き方」の賜物である。
 一九七六年四月,上智大学大学院文学研究科新聞学専攻博士課程に進学した。私の学んできた学部・修士課程には,マス・コミュニケーションやジャーナリズム関係が一つもなかったので,大学院入試の面接で求められたのは,学部の科目をできるだけたくさん学習するようにということであった。将来,大学でこれらの科目を教授する可能性があったから,これは私自身望むところであった。
 しかし,私の学会入会の推薦人で学会理事でもあった川中先生はその年の八月に病気のため亡くなってしまった。
 博士課程の開設にあたっては,川中先生の力が誰よりも大きかったため,院生の間では,「博士課程」がなくなってしまうのではないかという動揺が拡がった。しかし秋には,後任として上智OBの先の春原昭彦先生が着任され,大学院も平静に戻った。
 出版関係では,東大新聞研究所から移られた何初彦教授が「雑誌論」を開講してきた。このレクチャーは何教授ご自身の研究に基づくというより,『ジャーナリズム・クオータリー』など,外国の学術誌に掲載された研究の紹介が中心であった。
 講義のなかで一番興味を覚えたのは,雑誌には,ジャーナル,レビュー,マガジンの三種類あるという指摘であった。現在,私自身,これらを「雑誌の三類型」としてレクチャーしている。
 何教授のレクチャーは専ら用意してきた文章を読み上げるもので,一回の授業で三頁もノートすることも珍しくはなかった。このような教授方法は,東大の伝統的なスタイルだと後に聞いたことがある。
 ところで,当時の出版学会は,現在の雑誌部会のような研究会もなく,春季研究発表会のほか,年に二~五回程度の定例研究会や公開講演会が開催される状況であった。修士論文を提出したあと,研究テーマを求めてこのような研究会に積極的に参加し,できるだけ質問するように努めた。
 日本新聞学会(現 日本マス・コミュニケーション学会)に比べ小規模で,大学教員よりも出版人のメンバーが多い出版学会は,私にとって居心地のよいものであった。というのは,新聞学会は会員が圧倒的に大学の教員であるから,院生は否応なしにそのヒエラルヒーを意識させられる。一方,出版学会は,院生は私一人で最年少の会員ということもあってか,ありがたいことに多くの皆さんが目を掛けて下さった。
 学会の研究会に参加するとともに心掛けたのは,上智では開講されていない,あるいは不充分な科目を学外に求めることであった。
 東大新聞研究所における竹内郁郎先生の「世論」,立教大学で開講されていた同じ新研のT教授の「マス・メディア産業論」などである。これらは,担当教員の承諾をいただくだけで受講料を払わない「ニセ学生」である。ニセ学生であるから,担当教員が拒否すれば受講できない。国際基督教大学で「一般意味論」を開講していた女性のS教授には,受講を断られたのはまだしも,国際基督教大生を前に「みなさんは幸せです。上智大学の博士課程の学生がこの授業を受けたいとやってきました」とS教授の引き主役を演じさせられるようなこともあった。
 しかし,先のような先生方は,「ニセ学生」を歓迎してくれた。自分が教壇に立ってわかったことだが,一人でも真剣に自分の講義を聴いてくれることは,うれしいことである。反応のない授業は全く虚しい。授業が終わると先生方は,喫茶店やレストランに誘って下さった。そういうあるとき,T教授は「『出版論』では大学教員に就くことはできないよ」とおっしゃった。
 当時,日本全国で出版関係の科目がいくつ開講されていたか不明であるが,四年制大学では,出版の科目を担当する専任教員はいなかったと考えられる。一九八九年,前会長の植田康夫さんが母校の上智で専任教員に就任したのが,出版研究プロパーが四大教員の第一号かもしれない。
 先の東大新研のT教授の忠告は本当だと思われた。実際,当時,東大新研には,出版学の専任教員はいなかった。それだけでなく,後に「非常勤講師による『出版論』の優先順位は最低だったという」(「日本における出版教育」『出版研究』第三七号)ことを知った。
 T教授の厳しいアドバイスはあったが,出版以外の論文も発表すればよい。何より出版メディアが好きで,あまり人が研究していない分野で努力しようと思った。そうすれば,才能の乏しい自分でもそれなりのポジションが得られるかもしれない。
 七〇年の学園闘争のとき,私は全くのノンポリだった。それどころか,やや右翼がかっていたかもしれない。学園闘争が終息した頃,学園闘争など大衆運動の本質を宗教運動を原型として考えようとする一冊の本,E・ホッファー『大衆運動』に出会った。著者のホッファーは金鉱の鉱夫や移動農業労働者を経験しており,図書館で本を読みあさって,この本を書いたという。
 本を訳した高根正昭という人が上智大学の市ヶ谷キャンパスで教鞭をとっていることを知り,ホッファーに導かれるようにして会いにいった。高根先生に「何を期待しているの」といわれたので,「知的刺激をいただきたい」と,押しかけ弟子になった。

『図説日本のマスコミュニケーション』のこと

 高根先生は,高名な社会学者であり,振幅の大きい政治的主張から毀誉褒貶の激しい清水幾太郎氏の愛弟子であった。ご自分はもうマス・コミ研究はしていないからと,高根先生は,学習院時代の後輩である藤竹暁先生をご紹介下さった。
 当時,藤竹先生は,NHK放送文化研究所の主任研究員を務めていたが,その旺盛な著作活動から,有数のマスコミ研究のリーダーと目されていた。その藤竹先生から,一九七九年の冬,同志社大の山本明教授との共編『図説 日本のマスコミュニケーション』(NHKブックス)の編集において,各執筆との連絡係として,編集協力者を仰せつかった。この活動を通じて,出版だけでなく,新聞や放送,映画,広告にも関心を拡げることができ,多くの人と知り合えた。さらに上記の仕事以外にも,この本の「Ⅲ 出版」の執筆者に加えていただけたことはうれしく,研究の励みになった。
 同書は書名を『図説 日本のマスメディア』と変えたが,事実上,第五版を数えている。この本は「日本のメディアの発展と現状を知ろうとするうえで最も信頼できる概説書であり,かつデータブック」(編者)は,通算一〇万部以上を数えている。藤竹先生には,その後も多くのチャンスを与えていただいた。
 先の『図説 日本のマスコミュニケーション』が出版される二年前,博士課程三年のとき,箕輪成男先生が法政大学文学部で開講されていた「出版文化論」をニセ学生として受講しようとした。箕輪先生は,当時,国連大学学術情報局長の職にあったが,一九七五年,論文「『学』になりきれない出版学」を発表し,学会に衝撃を与えていたが,それまで,言葉を交わしたことはなかった。先生も,このニセ学生を快く受けいれて下さった。
 箕輪先生は仕事柄,海外出張が多く,ときに私自身が代わりに講師を務めることもあった。このようなことから,翌年,先生の代わりに,この「出版文化論」の非常勤講師として初めて大学教壇に立つこととなった。 箕輪先生の開陳する学問論には教えられた。実際,現在,大学院の授業では,この学問論を私なりに展開している。
 この四月,上梓された『出版学の現在日本出版学会一九六九二〇〇六年の軌跡』(朝陽会)の座談会でも述べたように,私が出版学会の研究活動の本格化のプロモターを務めた一人といったら言い過ぎだろうか。

出版学会での活動と研究成果

 八〇年代は,いくつかの勉強会が活動を展開するが,その第一号は,私が世話人を務めた,八〇年にスタートする出版勉強会であった。八一年には,書誌学者川瀬一馬さんにお願いして八回連続の「日本出版文化史講座」を企画開催した。
 このような学会活動への貢献を評価していただいたためか,青山学院大学の清水英夫先生の還暦論文集『法とジャーナリズム』(日本評論社)に論文を献呈させていただいた。さらには清水先生は,『平凡社大百科事典』や『日本大百科全書』への執筆の機会を与えて下さった。研究者を志したとき抱いた夢の一つが事典の執筆だったので,これは本当にうれしかった。
 私が主に参加した勉強会は,先の出版勉強会のほか,小学館の金平聖之助さんが主宰する「アメリカ雑誌勉強会」であった。講談社の藤本信彦さんが誘った同僚の小此木孝夫さんや引地康博さん,あるいはマガジンハウスの倉田和夫さんなどと知りえたことは,後に雑誌の研究を進める上で大変役立った。
 このように学会活動を展開する期間,これまで私を導いて下さった川中先生ばかりでなく,中野渡先生,高根先生と三人の先生方を失ってしまった。大学教員のポストは,今でも人脈が大きな影響力をもっていることが少なくない。それだけに,自分の前途を半ば絶望視していた。
 こういうなか,かつて聴講を許して下さった竹内先生から,これから開設される山梨英和短大の情報文化学科を紹介していただくことができた。これで十一年間にわたる高学歴フリーターの生活を終えることができた。
 ところで,大学教員になるための研究業績は,一般的に最低三~五本が必要とされるようだ。この時,私の研究業績は,論文四本,著書一〇点(単著一)であった。
 学会の先生方の誘いで多数の書籍執筆の機会を与えられたのは,大変幸せであった。それにしても,博士課程退学以降十一年間で論文四本は少ない。 この期間,時間はタップリある大学非常勤講師として,学会活動にかなりの時間と精力を費やしていた。このためか,学術的研究成果は乏しい。しかし,このような活動のなかで,その後のテーマ,雑誌研究を発見できたことは幸いであった。その後の短大勤務の一〇年間で論文八本,共著書九点の成果を残すことができた。
 これまでの研究生活を顧みると,大学教員になれたのも,さまざまな執筆の機会を与えられたのも,学会をはじめとする多くの方々のお陰というしかない。
 とりわけ,日本出版学会の活動を通して,雑誌研究という生涯の研究テーマを発見できたし,その研究のためのインフォーマントにも面識を得ることができた。そういう意味では,私自身は学会に育てられたといってもよいかもしれない。
 このたび,日本出版学会の第九代会長を務めることになった。学会の活動を通して,今までよりも一層,若い研究者のために尽力したいと思う。
 まずは,研究会やさまざまな部会に参加して下さい。そして,一緒に出版について研究しよう。

(東京経済大学コミュニケーション学部)
   (2008年7月11日)

(初出誌:『出版ニュース』2008年7月中旬号)

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