東京稗史出版社とは何だったのか
日 時:2012年9月25日(火) 18時30分~20時30分
報告者:磯部 敦 会員 (奈良女子大学研究院・准教授)
2012年2月,ぺりかん社より拙著『出版文化の明治前期―東京稗史出版社とその周辺―』を刊行した。拙著は二部構成になっていて,第一部は東京稗史出版社についての研究,第二部は出版研究各論として銅版草双紙や仏書,新聞出版についての研究であった。本報告は,第一部の東京稗史出版社研究をメインに,第二部で論じた各種史料を紹介しながら,出版史研究における史料的課題を述べたものである。
明治15年4月,曲亭馬琴の読本『夢想兵衛胡蝶物語』や『南総里見八犬伝』の活字翻刻本を予約出版方法で刊行するところから始まった東京稗史出版社の営為は,その後,三遊亭円朝演述『怪談牡丹燈籠』,菊亭香水『世路日記』を経て,明治18年,総生寛『東西両京市誌』を最後に終止符をうつ。『牡丹燈籠』や『世路日記』を除いて,東京稗史出版社の刊本には半紙本,琥珀色表紙,清朝活字を主とした字空き組版,綿密な校正,木版刷りの前付後付,予約出版方法という共通した生産・流通フォーマットを指摘しうる。こうした諸要素は,同時期に刊行されていた「近年流行する洋紙摺或ハ赤表紙本」,すなわち中本型和装活版本や四六判ボール表紙本との差異を可視的に示すものであった。周囲を見わたしてみれば,たとえば世に有益な良書として『八犬伝』や『通俗三国志』などを発行するとした著作館が翻刻雑誌『絵入人情豊年温故誌』の出版元温故社内に設けられた予約出版部門であったように,上記の差異は,出版元名の違いというところにまであらわれていた。ならば彼らは誰に向けてこの差異を提示し,共有していたのか。東京稗史出版社が上記の差異をふまえて「稗史」を出版しようとしていたのであれば,同時期における「稗史」受容のありようにそのヒントがあるだろう。かくして東京稗史出版社の営為を時代の文脈においてみたとき,そこに「中流以上/中流以下」という社会層認識が各言説の前提としてあったことに気づく。上記の差異は,「中流」を自認する人びとにとってはあるべき書物の姿なのであった。では,この「中流」層はどのように展開し,常識化していったのだろうか。今後の私の課題としてここに挙げておきたい。
東京稗史出版社に対する史料的アプローチにからめて,本報告では現在すすめている研究―奈良女高師図書館とGHQ廃棄図書,地方新聞出版研究など―を例に,諸史料の発掘,「発見」の必要性も説いた。新聞・教科書はもとより,出版研究において行政・私家の諸文書を調べるのは基本的な手続きであり,つとに指摘されてきたことではあるけれども,現在でもなおざりにされている感が強い。そうした諸史料の発掘に加え,いままで気が付かなかったものに対する史料的価値の「発見」をおこない,それらをいかにして共有しうる環境を構築していくか。出版「史」研究の目下の課題ではないだろうか。
(文責:磯部敦)