出版の自由と図書館の自由  西河内 靖泰 (2011年11月29日)

関西部会 発表要旨 (2011年11月29日)

出版の自由と図書館の自由
――『知をひらく~「図書館の自由」をもとめて』を刊行して

西河内 靖泰

1.はじめに――図書館と「図書館の自由」,私との関わりのきっかけから
 1976年4月に立正大学を卒業して荒川区役所職員になり,国民年金課に配属。その後,保健所を経て図書館勤務となった。私が図書館員になったのは,もうその年度も終わりかけの1988年(昭和63年)1月4日のこと,日暮里図書館への突然の異動だった。その図書館の係長級の人が亡くなって欠員となっていたための補充の異動であった。
 私の図書館業界との関わりは,この前年に東京で開かれた全国図書館大会での『原爆と差別』問題という「図書館の自由」の問題がきっかけであった。私の母親は広島で被爆した。私は原水禁にも原水協にも偏ることなく被爆二世の立場から原水禁運動に関わっていた。広島の被爆者である朝日新聞記者が書いた『原爆と差別』という本で「差別用語」とされる「特殊部落」という言葉が使われているということで,部落解放同盟から糾弾を受けることになった。もともと新聞に連載されていた記事では使われていなかったのに単行本になったら,「特殊部落」という言葉になっていた。この本を日本図書館協会が選定図書にしていたため,日図協も解放同盟の糾弾を受けることになる。その発言をされたと本に書かれた人は私の友人だったので,彼の運動と主張からはそういう発言は絶対にありえないはずで,私はその話を聞いたとき違和感があった。そのとき図書館でたまたま読んだ『みんなの図書館』にとりあげられていたので,10月に編集スタッフをしていた自治体問題関係の機関誌の取材のため全国図書館大会に参加した。その夜に,この問題の集会をするとのことで,主催者の図問研の松岡委員長に話を聞いた。出された本は自分たちと立場も違うし,問題のある部分も多くよい出来の本ではないが,たんに「差別用語」が使われているとして廃棄を求めるのは間違っている。いったん世の中に出たものを覆い隠そうとするのはおかしいという言葉に深く感銘を受けた。
 差別の問題に関わって,「差別」は言葉を言い換えることでなくなるわけではなく,より陰湿化し拡散していくことを自分は感じていた。隠すことはいかなる結果をもたらすのかを身をもって実感していたから,松岡さんの言葉に私は図書館員という人たちはこういうような矜持を持っているのだと深く感じいったことを思い出す。それから3か月後に図書館に異動になるとは。なにか因縁めいたものを感じた。ここから私の「図書館の自由」とのかかわりが始まっていったのだ。

2.図書館とは何か――図書館は何のため,誰のためにあるのか。「権利としての図書館」をめざして
 私は「福祉の思想」を原点に「人権擁護」「反差別」と結びついた「図書館の自由」の実現をめざしてきた。それには,図書館そのものが何のためにあるかを,まず図書館員自身が認識していなければならないと,私は考えている。これまでの図書館での経験から,私は図書館を次のように捉えている。
(1)図書館は「人権保障機関」である。「情報権」という「権利」を保障するものとして。(人が「情報」を手に入れることは,本来誰にでも与えられている「権利」だ。「情報」を扱う機関で,その権利を保障するものとして存在するのが,図書館なのである。「障害者に対する差別のただひとつの本質は,情報からの阻害にほかならない」。)
(2)図書館の目的は,「情報弱者」の「情報格差」を埋めるためにある。
(3)図書館は「住民」のためにある(とくに「弱い立場に置かれた人びと」のためにある)。
(4)図書館が拠り所とする規範は,「図書館法」(図書館サービスは「図書館法」に規定されたことを確実に実行することにある)。
(5)「ユネスコ公共図書館宣言」「日本国憲法第13条,25条」「ユネスコ学習権宣言」も図書館の基本規範。
(6)「図書館の自由宣言」「図書館員の倫理綱領」は,図書館・図書館員が堅持すべき基本原則。

3.出版の自由と図書館の自由 - 私自身の体験から考える
(1)「有害図書」問題
 「有害図書」の問題で,週刊誌の袋とじの問題のことだが,荒川区の図書館で私が知らないところで週刊誌(『週刊ポスト』や『週刊現代』)のヌード写真の袋とじをはずして,提供しないでいたことがあった。某新聞から取材があって,図書館としてやっていると報道された。このとき図書館長がこれらの週刊誌を取るのをやめたいと区の幹部会議でいったら,他の部長や課長から図書館には「図書館の自由」という原則があるだろう,そんな理由で自治体関係の記事も多い雑誌を排除するのか,おかしいのではないかとの,発言が相次いだという。それらの発言をした区の幹部も管理職の出発が図書館長だった人たち。「図書館の自由」は図書館の生命線だろうといってくれた幹部の話を聞いて,「図書館の自由」の問題に取り組んできて間違いなかったと感じた。
(2)「千葉県船橋市西図書館蔵書廃棄事件」問題
 私は船橋市民で,産経新聞に報道された翌日には,市教育委員会や議員に話を聞きに行ったが,大変な問題になっていた。図書館でそれまで排除されて事件として取り上げられていたのは左派系の本がおおかったが,このときは右派系の本だった。事件を起こしたとされた本人からの明確な告白はないので,事件の詳細は実のところ判明していない。ただ周辺証言は得られているので,その人がやったことはわかっているが,動機など肝心な部分は明らかにはなっていない。
 その人が児童図書館員の世界で「良書主義」だったことは有名。子供には良い本を読ませることが大事ということを否定するつもりはないが,だからといって「悪い本」を何が何でも排除することにはならないと思う。「悪い本」だから見せませんというのは,世の中の現実を覆い隠して知らせないことになる。それでは,ものを考える子には育たない。
 アニメの「日本昔ばなし」もハッピーエンドは4割くらいあるかどうか。民話や昔話は救いがあるような結末のものではない。福音館書店の桃太郎の話の結末は,私たちが子どもの頃聞いていた結末とちがい,桃太郎が正義になってしまっている。桃太郎が正義をうたいながらも,鬼を殺して宝物を奪う略奪者だ。宝物を持ってくるが,争ってみんな死んでしまう結末などもある。
 児童文学がきれいごとばかりになれば,どうなっていくのか。人が生きていくためには醜い現実を避けては通れないはずだ。中沢啓治の『はだしのゲン』も「残酷だ」との批判もあり,雑誌連載時はあまり評価されていない。トラウマになって怖いと語る人も多いが,原爆がもたらすものの恐ろしさを絵でこれでもかというほど描いている。そういうものを含めての表現であり,きれいなものだけ見せていくというのはおかしい。だから,おかしい事件が起こる。
(3)原発報道問題
 東日本大震災で原発事故が起きて,いまでも放射線がもれている。新聞・テレビのメディアが政府や東電の発表を垂れ流すだけの報道をしているとき,『週刊金曜日』『週刊現代』『週刊プレイボーイ』などの週刊誌では,進行している事態を伝えようとしている。これらの週刊誌を政治色が強いとかヌードが載っているとかでとっていない図書館も多い。でもいまそれを読みたい人たちがいるのに,図書館が入れようとしない。情報を提供しなければならないときに,知りたい情報はコントロールされている。私たちは,情報がコントロールされていることを自覚しなければならない。「図書館の自由」云々という前に,肝心の情報が収集できているのかを考えるべきだ。図書館は強者のためにあるのではない。図書館には「図書館法」があるが第3条に定められた「図書館奉仕」を誠実に実行することが大事なのだと思う。

4.いま,なぜ,私は,この本を出したのか。
  ――図書館員として,被爆二世として
 3・11とそれ以降のこの国の状況が,私のやってきたことの意味をあらためて問うてきたのだった。
 私が「図書館の自由」と関わることになったのは,私が被爆二世だったからである。同時に,いま私がこの国と図書館への在りようを考えさせてくれたのは,まさしく被爆二世であったからにほかならない。
 その立場からものをみることがいいのかは正直私自身には本当のところはわからないが,この本を出したのは,私が核の被害を身をもって体験した人たちの子であったからだ。だから,図書館は,もっと頑張って欲しいと思っている。
(文責:西河内 靖泰)