戦時統制とジャーナリズム 1940年代出版メディア史  吉田則昭 (2010年6月14日)

■関西部会  発表要旨(2010年6月14日)

戦時統制とジャーナリズム
1940年代出版メディア史

吉田則昭

 2010年6月14日に開催された関西部会では,今年6月に上梓した『戦時統制とジャーナリズム ―1940年代メディア史―』(昭和堂)のうち,特に戦前の出版史に関する第6章,すなわち(1)問題の所在,(2)戦時期の書籍・雑誌の状況,(3)日本出版文化協会の発足,(4)戦時の配給・販売と日配の設立,(5)「文協」問題,(6)日本出版会の誕生,(7)出版業界紙整理と戦時末期の出版界,について報告した。

 これと前後して,今回の報告の目的,本書を刊行しての反響,研究の来歴,戦時出版界と関西,1940年代出版メディア史のための方法論的再考,についても話した。
 本書6章では,主に歴史の「未解明」の克服,「通説」を問う試み,「資料」の発掘,をセットにして進めてきた。近年,戦時期や占領期の社会や文化に関する研究が再考され始め,この時期における雑誌や新聞,書籍に関する研究,文化状況のトータルな把握が必要とされてきているといえるが,当時の大学院生だった自分の関心で言えば,戦時期においてファシズムが進み言論の自由がなくなったという歴史観を少し違った角度から捕らえなおしたい,相対化したいということがあった。
 戦時から戦後への歴史の断絶面を強調しながらも,他方では,戦時に推し進められたメディア界の体制づくり,これを当時は「新聞新体制」「出版新体制」とも称されていたが,日本のメディア界の「1940年体制」についてどのように検証できるか,戦時と戦後の連続面を具体的に調べてみたいと考え,そういった観点から資料を集めてきた。特に,『出版文化』は,日本出版文化協会(文協),日本出版会,日本出版協会(出協)という,時局の要請により発展していった出版団体の機関紙として,1941年8月に創刊され,1950年9月まで刊行された。戦中における企画審査に伴う用紙割当,流通販売,企業合同などの出版政策,出版文化の問題に目を向けさせてくれる史料として有益であった。
 日米開戦後の1942年以降,国家総動員法のもとづく出版事業令により,文協は統制団体・日本出版会へとその業務が引き継がれる。両団体は,企画院から内閣に移管された新聞雑誌用紙統制委員会の割当原案作成機関として発足したのであったが,のちに日本出版会に統制規定が告示されると,割当権そのものを実質的に掌握するに至る。当時は「紙が神だった」とも言われるが,その後,終戦まで用紙の割当権限のみならず,出版事業の統制運用上必要な各種措置についての指示命令権,支配人や編集長など経営担当者などを変更し得る権限を持つことで,日本出版会はさらなる統制手法を開発する。1943年に3395社あった出版社は,44年3月には雑誌部門996社,書籍部門203社,計1199社にまで減少した。
 戦後,GHQは日本の民主化,言論の自由促進の手段として,新しい新聞雑誌の育成を重要な政策とした。そして出版社は自由に創業できるようになった。戦災による損失や戦時に蓄えた用紙在庫,資本力の違いなどにより,新興出版社にとって創業はそう簡単なことではなかったと思われるが,希望に満ちて沢山の出版社が誕生した。
 戦前戦後のいずれの時期を通じても,資料収集によって,出版界の用紙統制,検閲などの実態把握を,いくらかでも立体的,多角的に出版史をとらえ直せたと考えている。
 以上,報告の概要であるが,本書で扱いきれなかった点として,「戦時出版界と関西」「1940年代出版メディア史」のための方法論的再考についても報告した。筆者も,関西の出版社が辿った戦時史については,寡聞にして知らない点も多い。報告者の復刻してきた『出版同盟新聞』『出版文化』を手がかりにして,個別の地域,各出版社の実態解明をしたらどうかと問題提起も行った。またこうした「通史」(ナショナルヒストリー)を越えて,「個別史」をすすめるべきであることを述べた。1940年代の地域出版史は,まず何より資料を発掘することが必要である。それこそが,「戦時・戦後」史の捉え直しとなるからである。
(吉田則昭)